機関紙

Mutters Haus Journal第40号(2022.09.1) 

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ムッターハウスジャーナルは今号をもって一時休刊します。これまで発見した資料を学び研究し、その成果を次号(1年後)紹介します。

1面
2019年6月1日に「浜松ディアコニッセ母の家・社会福祉法人十字の園資料館がオープンしました。その時から、機関誌「ムッターハウスジャーナル」を毎月発行してきました。それは、私自身20年近く職員と共に理事長として歩んできたことを再確認したいと思ったからです。
2面
ディアコニッセであった宇野成子姉妹のことを掲載しました。
7月30日、成子姉妹の御兄弟3人が母の家を訪問されいろいろお話を聞かせていただき、アルバムも持ってきていただきました。
文語訳聖書ヨハネによる福音書「何事にて我が名によりて我に願わば、我これを成す。」から「成子」と名づけた。

Mutters Haus Journal第39号(2022.08.1) 

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これからの 浜松ディアコニッセ母の家のあり方と働きについて考えた

浜松ディアコニッセ母の家は1954年6月27日が創立の日です。来年は創立から50年になります。(平井 2003年記)

2004年5月5日 デイサービス「母の家」祝会

光子姉妹と一二三姉妹の年齢も80歳を過ぎましたが、母の家にできるだけ住み続けていただこうと、介護保険制度を活用して部屋を改装し、十字の園のサテライトデイサービスにすることを考えました。
裏面は、

母の家にある本から 思い出を訪ねて

ドイツの旅 ハニ姉妹に感謝をこめて

『あの日あの時』同窓会記念誌 1989年8月 聖隷准看護学園同窓会

聖隷准看護学園は1期生(S27.4~S29.3)から15期生(S41.3~S43.3)まで、聴講生2名を含め232人の名前があります。

Mutters Haus Journal第38号(2022.07.1) 

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『法人の理念の実践への挑戦』~より良い介護のユニットケアを再確認~

介護保険制度が施行されて2年半後の2002年10月に静岡県主催の「第1回静岡ユニットケアセミナーが開催されました。今から20年前のことです。
静岡県が主催で開催です。この時から「ユニットケア」による特養利用者の生活が一変しました。笑顔が増えてきたのです。

わかば -その歩みを顧みて-わかば保育園認可25周年記念誌-

宮崎まさ子先生、小松洋先生の言葉に、田島誠一氏の「男性保育者第1号」の記事がありました。
『深萩教会学校のあゆみ』、
聖隷病院で看護をしていた方々の会の『ささゆり』もお読みください。

Mutters Haus Journal第37号(2022.06.1) 

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『聖隷史研究』(聖隷医療福祉研究所 1992.7~1995.4)

聖隷事業団のキリスト教主義について
(聖隷史研究第2号と『聖隷60周年』記念誌から
1993(平成5)年2月の『聖隷史研究』に「聖隷事業団のキリスト教主義について」の座談会の記事が載っています。その時の出席者は次の方々です。

聖隷本部総務部次長 安間英行 聖隷福祉事業団常務 大塚 暢 元エデンの園々長 島田愃平 元聖隷福祉事業団常務理事 鈴木唯男 遠州栄光教会牧師 西村一之  
聖隷福祉事業団理事長 長谷川 力 聖隷学園理事長 長谷川 了 小羊学園理事長 山浦俊治 十字の園理事長 綿鍋義典   司会 船窪 健

裏面は、前回のつづきを掲載しています。

鈴木フミさんが語った鈴木生二さんのこと(第2回)

山浦俊治(初代小羊学園理事長)の赤ちゃん時代の写真もあります。

Mutters Haus Journal第36号(2022.05.1) 

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『聖隷史研究』(聖隷医療福祉研究所 1992.7~1995.4)

現在の聖隷歴史資料館(聖隷クリストファー大学5号館内)の前にも聖隷府福祉事業団運営の聖隷歴史資料館がありました。そこで『聖隷史研究』誌が定期的に発行していました。今回から研究史の中から取り上げて紹介します。

「創立の精神とその継承」十字の園理事長 綿鍋 義典(創刊号1995.4抜粋)

☆ カルヴィニズムの実践=聖隷の伝統
☆ ドイツ・ディアコニー運動への共感
☆ 十字の園の誕生
☆ 十字の園の原点は「キリスト者の自由」
☆ われらの任務とこころざし

鈴木フミさんが語った鈴木生二さんのこと

(第1回)病状発症から脳腫瘍告知までの家族の思い
~患者と家族と専門職へのヒント~

Mutters Haus Journal第35号(2022.04.1) 

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聖隷グループ各法人と教会

キリスト教精神を定款に記している聖隷グループの各法人には、関係する教会があります。今回は、社会福祉法人十字の園に関係する教会です。
2面では、「母の家にあった資料からの掘り起こし」の第1回です。
教会にまつわる内容を取り上げました。

Mutters Haus Journal第34号(2022.03.1) 

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聖隷グループの海外法人の紹介

望の家福祉協会(ブラジルサンパウロ)を紹介します。
1958(昭和33)年8月4日、市川幸子(こうこ)さんは、知恵遅れの子どもたちのために一生を捧げる決意をして単身ブラジルに渡りました。ブラジル「希望の家」は、ここから歴史が始まります。

2面に「浜松ディアコニッセ母の家の蔵書から⓵」

『おれいちゃん の ぼうけん』著者小塩れい 発行者小塩節 2001.1.5発行
『おばあちゃんの八十のポケット』小塩れい 新教出版社 1982年3月発刊
『野に咲くベロニカ』林 冨美子 小峰書房 1981.10
『夕暮になっても光はある』(特養寮母の看護絵日記) 1984年6月発刊
え 土田セイ 文 林冨美子

Mutters Haus Journal第33号(2022.02.1) 

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聖隷グループの海外法人の紹介

(聖隷希望の家(インド) SEIREI ASHA BHAVAN
南インド・ケララ州パナルール市(Punalur, Kerala)
代表(監督) ヴァルゲーゼ・アブラハム
歴史と歩み
1984年 アブラハム氏が、小羊学園、やまばと学園、神戸聖隷にて半年間にわたり研修を受ける。
1987年 ケララ州にて7人のグループホームを開始。
1988年 非営利団体(NGO)としてインド政府が認可。

2面には、ナイチンゲールにつながる 最近の話題を載せました。

浜松ディアコニッセ母の家の光子姉妹の妹の山浦イツさんは、神山復生病院の井深八重さんと一緒に働きました。井深さんはにナイチンゲール記章を受賞しています。そこにまつわる話です。

Mutters Haus Journal第32号(2022.01.1) 

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「聖なる神の奴隷」DVDシナリオ
(福)神戸聖隷福祉事業団「志を共にする良き相談者との出会い」
1面は
2002年4月当時の職員で考えた「基本理念」「行動規範」を載せています。
水野 雄二理事長の挨拶と但馬地区および神戸地区の新事業を紹介
2面 は
次世代に、記録として残したいために新年に、
2021年12月の各施設のクリスマスツリーを取り上げました。

Mutters Haus Journal第31号(2021.12.1) 

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「聖なる神の奴隷」DVDシナリオ
(福)牧ノ原やまばと学園「教会から生まれたやまばと学園」
1面は
牧ノ原やまばと学園50周年記念誌より
創設者(長澤巌)の言葉
(1969年やまばと学園の定礎式のことば)
理事長メッセージ 長澤道子氏
創立50周 年を迎えて「過去から今、そして、未来へ」

2面は
「物言う手」の映画の3回目(最終回)です。

Mutters Haus Journal第30号(2021.11.1) 

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「聖なる神の奴隷」DVDシナリオ
⓻福祉分野 小羊学園です。
1面は、
小羊学園50周年記念誌『小羊学園と山浦俊治』より掲載しました。
第1章 小羊学園の歩み 建築計画、小羊学園開園、社会福祉法人の設立
第4章 山浦俊治との交わり 私と十字の園と小羊学園 平井章
理事長メッセージ 稲松義人理事長
2面は、
独逸ベルリンポツダムノアウエ聾盲唖院「物言う手」の映画を載せています。

Mutters Haus Journal第29号(2021.10.1) 

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「聖なる神の奴隷」DVDシナリオ
⓺福祉分野 十字の園シリーズです。
社会福祉法人十字の園のホームページが新しくなりました。
2面は、独逸ベルリンポツダムノアウエ聾盲唖院「物言う手」の映画を載せています。

Mutters Haus Journal第29号(2021.10.1) 

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「聖なる神の奴隷」DVDシナリオ
⑤医療分野 聖隷福祉事業団シリーズです。
4月に聖隷福祉事業団の理事長に青木義治氏が新たに就任しました。
2面は「1984年マザー・テレサ来訪。『いのち、神のたまもの』と題して講演を行い、十字の園や聖隷ホスピスなど聖隷グループの諸施設を訪問。」を掲載しました。

Mutters Haus Journal第27号(2021.8.1) 

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「聖なる神の奴隷」DVDシナリオ
激動期~開花期 ④教育分野 聖隷学園
聖隷学園のターニングポイントは、准看護学校の設立です。曽於から聖隷クリストファー大学へ、昨年は小学校開学。将来は、メディカルスクールへと歩んでいます。
ドイツから5人のディアコニッセと一緒の船で来日した人にエリザベート・ストローム宣教師がおりました。ミッドナイト・ミッションから、日本の女性保護のために派遣されました。3冊の本があります。
『釜ヶ崎はワタシの故郷』(1972.3.20)
『喜望の町-釜ヶ崎に生きて20年』(1988.9.20)
『神様が笑った』福井達雨共著(1982.5.20)

 

Mutters Haus Journal第26号(2021.7.1) 

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「聖なる神の奴隷」DVDシナリオ 激動期 新生日本とともに
長谷川保は戦後初の衆議院選へ出馬を決意し、みごと当選を果たします。彼らの救いの手は、戦争遺族となった母子家庭の救済にまで伸びていきました。この日本一と呼ばれた弁天島同胞寮での活動です。

Mutters Haus Journal第25号(2021.6.1) 

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第40回浜松市芸術祭1994(平成6)年12月に福祉文化会館ホールにおいて浜松放送劇団による「三方ケ原保養農園物語 ただ一筋にこそ」が公演された。そのシナリオの一部を掲載します。
その中に『マンガで語る長谷川保物語 破天荒-福祉の巨人、我が心の師-』 遠藤正一著 より借用しています。
本は「交友社」から出版されました。遠藤正一氏は長谷川保の秘書をしておりました。

Mutters Haus Journal第24号(2021.5.1) 

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ムッタ―ハウスジャーナルを毎月発行して2年になりました。今号から聖隷グループを取り上げます。聖隷歴史資料館の資料から紹介します。聖隷グループとは、聖隷福祉事業団、聖隷学園、十字の園、小羊学園、牧ノ原やまばと学園、神戸聖隷福祉事業団、インドせいれい希望の家、ブラジル希望の家と遠州栄光教会並びに各法人と関係する教会のことをいいます。
今回より、聖隷グループの歴史を取り上げます。

Mutters Haus Journal第23号(2021.4.1) 

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日本で最初の特別養護老人ホームはドイツと世界の教会等の献金で創られました。また、伊勢湾台風など災害支援も行われました。
創立60年間の理事・監事・評議員の方々の名前を掲載しました。多くの方々によって十字の園の歩みが続けられました。
聖隷クリストファー大学の名前の由来の資料がありました。

Mutters Haus Journal第22号(2021.3.1) 

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全社協「老人ホームガイドブック」 (S52.3出版)
次の箇所は鈴木生二氏が担当し執筆しました。
2 老人ホームの職員となって
(1) 始めに――忘れてはならないこと
①「私」と「老人」との関係
ケアする人も、老人も、それぞれの意思をもった人間同士であるということです。毎日のケアしていくうちに、「ケアするものとしての私」と「ケアされるものとしての老人」の間になにか上下関係でもありそうな気がしてくることです。私と老人の関係をどのように考えるか、ケアしていくうえで重大な意味をもちます。

Mutters Haus Journal第21号(2021.2.1) 

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創立50周年記念のときの施設発表を連載しています。今回は「介護型ケアハウス・第2アドナイ館」です。
第2アドナイ館は介護型ケアハウスでは第1号です。独特の思いを持って建てた施設ですが、ある人は「平井さんの道楽が始まった」と言いました。全室個室、洗濯機スペース付きのトイレ、5人に一つの共用スペース、共用洗濯機、共用浴室、10人に一つの食堂、共用トイレ、全体用のリハビリ集会室があります。開設時から満床が続いています。
2面にはディアコニッセ・ハニ・ウォルフ姉妹の若いころの写真とハニ姉妹と長谷川保さんと一緒に選択している写真を載せました。

Mutters Haus Journal第20号(2021.1.1) 

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創立50周年記念のときの施設発表を連載しています。今回は「伊東市立養護老人ホーム平和の杜」です。
伊東市立養護老人ホームを受託経営をしてから16年になります。11年目の管理運営の審査の時に伊東市に対して伊豆高原十字の園の敷地内に移転新築をしたいとプレゼンしました。その後、伊東市長に、福祉部長にも会い理解を得ていたのですが……。

Mutters Haus Journal第19号(2020.12.1) 

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創立50周年記念のときの施設発表を連載しています。今回は「松崎十字の園と障碍者支援オリブ、就労支援ワークショップ・マナ」です。
日本で最初のディアコニッセ母の家である「ベテスダ奉仕女母の家」の紹介をします。クリスマスになりました。松崎十字の園ではアドベントモーニングコワイヤーが今年も行われました。

Mutters Haus Journal第18号(2020.11.1) 

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創立50周年記念のときの施設発表を連載しています。今回は「アドナイ館と細江デイサービス」です。開設まもない頃の新聞に紹介されました。『まるでマンション クラシックが流れ 花が咲き』とありました。

裏面にはディアコニッセの教育課程「労働について」(講師ハニ姉妹)で現代の働き改革に通じるものがあります。

Mutters Haus Journal第17号(2020.10.1) 

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創立50周年記念のときの施設発表を連載しています。今回は「伊豆高原十字の園」です。

裏面には浜松十字の園の元介護主任の加藤はるさんの自費出版した『照る日 曇る日 今日もまた』の紹介をしています。

Mutters Haus Journal第16号(2020.9.1) 

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創立50周年記念のときの施設発表を連載しています。今回は「御殿場十字の園」です。

Mutters Haus Journal第15号(2020.8.1) 

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創立50周年記念のときの施設発表を連載します。今回は「浜松十字の園」です。その所で、浜松十字の園に対しては、『日本の特別養護老人の発祥の施設であり、ずっと注目されています。また、これからも時代を読み取りながら、「夢」創設したように、これからも「夢を持ちながら」新しいことにチャレンジする施設であり続けることを期待します。何より「キリスト教精神」を忘れずに!』

Mutters Haus Journal第14号(2020.7.1) 

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浜松ディアコニッセ母の家 社会福祉法人 十 字 の 園 歴史探訪 No.14

農繁期の「季節託児所」の日誌が出てきました。田植えの時と借入の時に幼児・子供を預かりました。その子たちは今は70前後になっています。近所に住んでいるかもしれません。

Mutters Haus Journal第13号(2020.6.1) 

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浜松ディアコニッセ母の家 社会福祉法人 十 字 の 園 歴史探訪 No.13

1969年10月 伊勢湾台風(9月26日上陸)災害のためミュンスター母の家の努力により、ウェストファーレン州教会から85万円の義援金が託される。直ちに290組の布団を作らせ、被害者に急送する。(別にドイツ母の家等から67万円寄付あり)

Mutters Haus Journal第12号(2020.5.1) 

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浜松ディアコニッセ母の家 社会福祉法人 十 字 の 園 歴史探訪 No.12

十字の園にも天皇陛下から御下賜金を頂きました。浜松十字の園の元理事長を片付けていたら本棚の上にありました。聖隷福祉事業団の昭和14年御下賜金は当時のお金で5000円、また、天皇の認めた事業だということで迫害が収まったというドラマチックなできごとでしたが、十字の園のエピソードは特にありませんでした。

Mutters Haus Journal第11号(2020.4.1) 

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浜松ディアコニッセ母の家 社会福祉法人 十 字 の 園 歴史探訪 No.11

介護保険制度が始まった年に「普通の生活」をテーマに、既存施設の中にユニット・ケアを取り入れ、その一環として「制服」をやめました。

これは、ディアコニッセの制服です。黒とグレーがあり、それぞれ黒とグレーのエプロンもあります。寝るとき以外はこの制服を身につけます。ディアコニッセでなくなったら制服を返し、着ることはできません。身だしなみには厳しかったようです。被っている帽子は、汗で汚れていて、ベテスダ奉仕所母の家で分けてもらうとしたら、浜松は独自のものですと言われました。
右側は、加藤はる氏の来ていたものを提供してもらいました。これは上衣とズボンの制服ですが、女性にはワンピースのものもあったようです。これは白ですが、職員が増えてからは既製品のブルーの制服になりました。浜松十字の園の介・看護職員の制服です。作業時には白いエプロンを付けます。
昔は暖房がなかったので冬には、夜勤者用の「ちゃんちゃんこ」があったそうです。ハニ姉妹の心遣いだったと聞きました。また、女性には被り帽子がありましたが、初代鈴木生二理事長夫人の鈴木フミ婦長さんの考案したものです。若い職員は、鍔(つば)の所にノリをつけ、かっこつけていたと聞きました。
アドナイ館はぶどうのマーク入りのトレーナー、Tシャツ、ジャンパーがありました。色は自由で、利用者と外出しても、「施設の人」のイメージをなくそうとしました。マークは当時の平井施設長のデザインで、Tシャツは一枚500円で販売しましたが、一度洗うと型が崩れヨレヨレで、不評でした。
伊豆高原十字の園の名入りのセーターです。これと対のカーディガンもあります。相談員や事務員が着ていました。制服もありました。

50周年「創立の精神より新たな福祉に挑戦」

ユニット・ケアによる「普通の生活」を改革の土台にして、ケア内容、職員のあり方、環境の改善に着手しました。利用者と職員を8つの小さな単位のユニットに分け、日課の見直し、ユニット単位での生活を作っていくことから始め、パート職員を増員して「湯ったり湯っくり」 をテーマにした入浴方法の改善が第一歩。さらに、「普通の生活の場では、ユニホームは着ていないよね」という考えから、看護職員、介護職員の制服廃止に着手します。40年着てきた制服を脱ぎ捨てることは、容易なことではありませんでしたが、ベテラン看護師の行動に端を発し、2001年2月12日、職員全員が納得し制服を脱ぎました。

Mutters Haus Journal第10号(2020.3.1) 

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浜松ディアコニッセ母の家・社会福祉法人 十 字 の 園 歴史探訪 No.9

「静かな祈りのときのために~みことばへの想い(1985年1月~10月)」の冊子が出てきました。それは真壁伍郎氏(新潟大学名誉教授)がドイツ語のものを翻訳し、母の家に送ってきたものでした。2年前に広島でお会いした時に浜松の母の家にも行きましたと言っておられました。
ホール夫妻をお訪ねして
ホール夫妻は、スイスの標高1200mの山の町に住んでいます。ホール夫人は68歳、ご主人は65歳。三人の子はすでに巣立って、お二人だけの生活です。夫人は病弱なほっそりした方で、とてもこの方が30年以上も毎日みことば(ローズンゲンの日々の聖句)への想いを書いてこられた方だと思えないほどでした。良い本が揃った書斎で、静かにみことばに向かっておられました。多く読むより、優れた本をさらに深く思索しておられるという印象を受けました。日に何本もかかってくる悩みを訴える電話にも誠実に応じておられました。
質素な、規則正しい生活、時間がすみずみまで生かされているという感じを受けました。『静かな祈りのときのために』の冊子は、毎月一万六千部、主として、スイス、ドイツに送られています。ディアコニッセにとても熱心な読者が多いとも言っておられました。海外にも少なからず送られています。この編集や発送の事務はすべてご主人ヤーコブさんがやっておられました。語学の教師をしておられ、つい先頃学校の職を退かれたそうです。この方が、ご夫人を助けて冊子の発行を続けておられるのです。「妻に与えられた神様からの賜物を生かしてあげなくては」とさりげなく言われます。ホール夫人は、ドイツやスイスでは詩人としても高名な方だと知りました。
日本のいのちの電話のきっかけをつくったヘットカンプ先生にも、デュッセルドルフでお会いしました。ホール夫人とはお知り合いの間柄です。ドイツに帰られて、何をしようかといろいろ考えられたそうです。日本でやっておられた『望みの門』や電話相談の仕事とはまったく別な領域の仕事を始められました。ホール夫人も、ヘットカンプ先生も、みなさんにくれぐれもよろしくと言っておられました。ヘットカンプ先生がプレゼントしてくださったのが、『静かな祈りのときのために』に出会ったきっかけです。帰国前の二日、ディアコニッセのふるさとカイザースヴェルトの「母の家」に泊めていただきました。 (真壁伍郎)
『静かな祈りのときのために』(1985.1~10)をデータにして印刷できるようにしました。

Mutters Haus Journal第9号(2020.2.1) 

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浜松ディアコニッセ母の家・社会福祉法人 十 字 の 園 歴史探訪 No.9

母の家復活礼拝堂の記録」日誌より
1966年6月27日 復活礼拝堂献堂式
2.11 礼拝堂の図面が来ました。羽仁姉妹、感謝の祈りをささげる。
2.12富士建築の森社長さんと図面のことで、ハニ、光子、一二三の3姉妹。見積もり額は100万円とのこと。羽仁姉妹の帰国までに建前をしたいと社長より話しがあった。
2.22 礼拝堂にブルドーザーの工事始まりました。2月23日は、礼拝堂の整地及び地固めが始まりました。
2.28 礼拝堂の建築費の一部として500,000円を富士建築に支払う。
3.3 ドイツの教区から十字の園に900,000円の献金と礼拝堂のための献金がとどきました。
3.17 礼拝堂のブロックが積み始められた。
3.23 十字の園送別会。赤飯を共に食し、老人による劇やスライド、富士建築で作られた。十字の園の建築工事のフィルムなどを見せていただいた。
3.26 今朝は積まれたブロックの礼拝堂で朝拝を守った。(ハニ姉妹がドイツ帰国前々日)
3.27 7時より礼拝堂のブロックの中で礼拝。
3.28 8時15分、母の家の前にて、光子姉妹司会、詩篇100編、讃美歌2番、聖隷保養園の方々や学園の生徒さん、老人ホーム職員の見送りを受け8時半出発し、9時35分、5分遅れて浜松駅を出発。11時45分東京到着。羽田に行き食事を済ませ、厚生省に長谷川先生の案内で行く。政務次官より鈴木善幸厚生労働大臣からの感謝状を頂く。羽田に戻り。多くの方々が見送られ、5時20分お別れをする。6時20分定刻に出発。
5.18 母の家の礼拝堂がいよいよ完成に近づいてきた。外側が白く塗られ、入り口の扉に飾りにステンレスの鋲が打ちこんであり、すっきりした感じがする。できるだけ純日本式にと願われた羽仁姉妹の志を生かしてと森さんは苦心しておられる。
5.21 週末礼拝。母の家の礼拝堂の写真ができたので、羽仁姉妹に送るために用意した。
5.25 晴れから雨模様。礼拝堂もいよいよ完成に近い。高田さんにお聞きしながら6月の第一日曜日ぐらいまでにできるようにしましょうと言われた。
5.30 久しぶりに晴れ渡った気持ち良い日だった。急に夏が来たように蝉が泣き出す。礼拝堂の壁もすっかり出来上がった。あと、テーブルに電球が入れば完成する。外側の塀ももう少し出してもらうようにした。長谷川先生がエルサレムから持ち帰られた十字架をお願いして会堂の玄関上にかかげたい。
6.6 西村先生と礼拝堂献堂式について話し合う。午後長谷川先生礼拝堂の方へお見えになる。
6.7 礼拝堂献堂式においてハイデルベルク信仰問答、第一聖日問1を唱えることにし、それまで毎朝、礼拝の時に言ってみることにする。
6.18 あと10日で献堂式を控えて、庭の草取りをぼつぼつ始めるが、気ばかり焦る。
6.21 一二三姉妹、光子姉妹は浜松にプログラム作りの紙を買いにいかれる。10時過ぎまでカード作り。ドイツからの麦わらで作る。
6.22 一二三姉妹、朝から会堂のワックスを塗り。ブラシかけを行う。午後は、男の人たちが草刈りに来てくださり、今日、夕方までに油ふきは4回したことになる。
6.26 4時30分長谷川氏明日のために聖アンジェリコの受胎告知の画をお祝いに持ってきてくださる。
6.27 母の家復活礼拝堂献堂式
母の家「名画展」
復活礼拝堂と資料館展示場に前号に載せた名画を展示します。
ぜひ、ご覧になりに来てください。

Mutters Haus Journal第8号(2020.1.1) 

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浜松ディアコニッセ母の家・社会福祉法人 十 字 の 園 歴史探訪 No.8

「母の家所蔵 名画」紹介
復活礼拝堂から名画が見つかりました。
①『バベルの塔 1563年』  作:ピーデル・ブリューゲル
➁『カインとアベル』 作:ロレンツォ・ギベルティ
③『ドラゴンと戦う聖ミーティング』 作:アルブレヒト・デューラー
④『騎士と死と悪魔』黙示録 作:アルブレヒト・デューラー
⑤『羊飼いの前に現れた天使』 作:レンブラント・ファン・レイン
⑥『最後の審判1220-1230』 パリ・ノートルダメ大聖堂
⑦『ウェストファリアンマスター王の崇拝』 ブタペスト国立西洋美術館
⑧『キリストの誕生』 作:マーティン・ショナウアー
⑨『受胎告知と復活』 作:マティアス・グリネヴァルト
➉『復活』 作:アキム・スコブガード
⑪『十字架を背負ったキリスト』 作:マーティン・ショーンガウアー
⑫『ユダのキス』 作:ジョット
⑬『オリーブ山のキリスト』 作:アルブレヒト・アルトドルファー
⑭『エマオのキリスト』 作:レンブラント・ファン・レイン

母の家の日誌 1966年新年

1966.1.1(土)元旦
週末礼拝  西村牧師によって
聖書 愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。(エペソ書4:15)
羽仁姉妹、月子姉妹 夜勤
黄さん、一二三姉妹、光子姉妹午後散歩に行き、梅の花を取りに行った。おだやかに晴れたお正月で、新しい年の始めとして喜ばしい日だった。
午後6時、英子姉妹が東京から帰られた。御両親様が大変喜ばれたとの事で、本当に嬉しい事だ。お母様もお元気にしておられたとの事。
1966.1.2(日)晴
聖日礼拝 西村牧師 聖書 ルカ福音書2章21-32
月子姉妹夜勤明けで午後岡山のお家に帰られた。6日に帰る予定。午後、5年前に母の家を出てお家に帰られた幸子姉妹がおいでになり懐かしく色々と話しをした。娘さんの学校の事で娘さんと二人で西村先生の所に見えられたとの事。
和子姉妹が、具合が悪く夜勤に出られなくなり、羽仁姉妹がその代わりに勤務された。平良さんが神戸から帰られる予定。
羽仁姉妹、英子姉妹 夜勤
1966.1.3(月)
平良さん、昨夜11時20分帰られたが、今日は7時から勤務で大変元気で張り切っておられた。外の新しい空気に触れる事は良い事だ。和子姉妹も昼休んでいたが夜勤に出る事が出来た。
羽仁姉妹、あまり体の方は元気なし。夜勤の間にはドイツへの連絡が忙しい。
(つづく)

Mutters Haus Journal第7号(2019.12.1) 

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浜松ディアコニッセ母の家・社会福祉法人 十 字 の 園 歴史探訪 No.6

「聖書の旅」その1     市川一二三姉妹
シナイ山、イスラエル、アテネ。棕梠の主日はエルサレムで迎えた。棕梠や、オリーブの枝を手に手に讃美歌を歌いつつオリーブ山から十字架の道への行進に出会った。ガリラヤは春で、美しい花々が咲き乱れていた。私たち一行は、ゲネサレ湖畔キブツで一泊した。朝まだき、静かなゲネサレの岸辺にひとときを佇んだ。さざなみが銀色にきらめき出してゲネサレの夜は明けた。ペテロの召命、そして『夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた』あの復活の主と弟子たちとの出会い、限りない赦しと、あらたな創造へと呼び出したもう復活の主の恵みのお言葉が心に迫り深い感動に包まれた。このゲネサレ湖岸で最近2000年前のものと推定される木船が発見され、湖岸の水中に保管されてあった。ギリシャでは、パウロの第二、第三伝道旅行の地へ。コリント海峡を通り、コリント遺跡、パウロが誓願を立てたケンクレアへ。ケンクレアは女執事フィベの故郷でもある。最後はアテネのアクロポリス、アレオパゴスの丘を見学、帰途についた。聖書の旅は主に導き出され、支えられた恩寵の旅であった。感謝。

「聖書の旅」その2    山浦光子姉妹
聖地イスラエルの世界が心に甦る。恵みのうちに聖書の旅のエジプトのカイロに一泊し専用バスで出発。指導者モーセによってエジプトをイスラエルの人々が脱出したそのコースを辿って、岩石砂漠のただ一筋の道を走りに走った。スエズ運河を渡り、灰色の山ひだの連なるシンの荒野を南下して走り続ける。砂漠の中のオアシスのある所で石の塀垣で守られるように小さな礼拝堂があった。カトリックの教会である。教会を後に車はなおも南へ走る。夕闇の迫る頃、赤い岩肌をさらし天に向かってそびえ立つシナイ山の麓のホテルに到着した。小石と砂の平地が目の前の山裾まで広がり、そこに石を積み重ねた洞窟のような家が点在していたが、そこがホテルであった。日中の荒野は30度位と聞いたのに、空を仰ぐと、身近に星が輝いているように感じられた。荒野の厳しさはいばかりか知ることはできない。豊富な水に恵まれている私たちはただ感謝あるのみ。

母の家のクリスマス

母の家ではクリスマスが近づくと生誕物語の木彫りの人形を飾ります。
近所の子供が見にきます。ドイツ風のツリーなど、写真で思い出を辿ります。プレセピオとはイタリア語で「飼い葉桶」の意味で、フランスでクレッシュ、ドイツではクリッペと言います。
母の家には、3つクリッペがあります。資料館に飾ってありますので見て下さい。

Mutters Haus Journal第6号(2019.11.1) 

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浜松ディアコニッセ母の家・社会福祉法人十字の園 歴史探訪 No.6

「十字の園老人ホーム」 要覧
近年医療制度や医薬品の進歩により、わが国もようやく欧米の文化国家並みに死亡率が減少しましたが、その反面老齢人口が増加しております。この中には家族制度の崩壊から孤独な余生を送っている老人や、生活保護に頼らなければ生活できない老人がかなり多く、いずれも不安な日々を送っている現状であります。統計等によれば老齢人口はさらに増加することを予想していますが、また生活保護法に頼る老人も漸増の傾向と聞きます。勿論、国においても老齢福祉施設の増設、老人福祉センターの設置等積極的な施策を進められておりますが、老人施設の収容力は公私ともになお不足している現状であります。以上の現状を見渡す見過ごすごしていることができず、十字の園の理事会は老人ホーム設立の件を満場一致で議決、直ちに設立準備にとりかからんとするも基金の問題で壁につきあたり困惑していた時、浜松ディアコニッセ母の家のシュベスー(奉仕女)がドイツを中心に募金運動を決意し、昭和33年12月から3カ月間休暇を献げてこのために骨身を惜しまず献身的努力の結果、ついにその祈りが聞かれ、ほぼ設立に必要な基金を集めて帰国、昭和35年5月5日についに定礎式を行うまでに至り、同年10月31日に建物の竣工を見た。その後、「世界の糧(パン)」の団体、あるいはアメリカの在留邦人のキリスト教会の婦人会、近くは国内のキリスト教会、婦人会、一般各位等々からの心よりの献金に支えられ、まず30名を収容する完備したホームの設立を見たが、当園での特色としては、外国にはすでに行われております看護老人ホームのひな形にも似た、病弱者用ベットの部屋を設け、脳溢血の後遺症など常時医者を必要としないが看護を必要とする病弱者、失禁者で1日60枚ものオムツを使用するような老人、約20名を看護しております。ややもすると光明を失いがちな病弱者も、キリストの復活の信仰に接することにより、明るく生きがいを感じ日々の歩みを楽しく賛美しつつ送っております。健康者も自己の生来保持する技能を生かし自発的に山仕事に、畑の整地に、思い思いに工夫をこらして生活を楽しんでおります。
したがって入園後は非常に若返り、老化現象も薄らぎ、全身の機能が回復し、社会復帰をさえ考えるほどです。が、私たちの目標とするホームは日毎に生き生きと生活する所であり、生存するだけであってはいけないと思います。

管 理 組 織

園 長 鈴 木 生 二  事 務  1
寮 母  1       看護婦  3
調 理  2       嘱託医  2

経営事業種目

生活保護法による施設

定   員

30名 但し内約20名は慢性疾患を持つ病弱者
(脳溢血等による後遺症で歩行困難、失禁者等)

建物の坪数

建  坪  157 坪 (ブロック造平屋建日本瓦葺)

敷 地 面 積

敷  地  2,406 坪

入園の条件

生活保護法の生活扶助を受けている者で、年齢概ね60才を超え独立して日常生活を営むことができない者。

日   課

病弱者      健康者
起  床  6:30       7:00
朝  食  7:45(7:00)  7:30(7:30)
礼  拝              8:30
健康の時間           9:00~11:30
昼  食  11:30(11:00) 11:45(11:30)
静  養           11:00~15:00
入  浴  14:00~15:00(月・水・金)
夕  食  16:30      16:45
消  燈 20:00       21:00
生 活 指 導
入園者又は入園後に於いては、毎月1回又は入園者の求めに応じ、随時身上について面接相談に応じます。

作   業

原則として作業は課さないが、入園者の希望により、かつ施設長が入園者の健康保持等生活指導上の見地から、適当と認めた場合は入園者の身体的条件に応じ、簡易的な作業に従事させることがあります。

処 遇 状 況

特に介護を要する病弱者をいたしますので、看護婦を3名、嘱託医2名を従事させ医療陣容を固め、姉妹関係と聖霊病院と緊密な連携な連絡をとりつつ保健衛生には特別考慮いたします。

Mutters Haus Journal第5号(2019.10.1) 

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浜松ディアコニッセ母の家・社会福祉法人 十 字 の 園  歴史探訪 No.5

「十字の園開園の辞」   理事長 鈴木生二
数年前のことである。保養園30年の歴史の創造者である同志(貧しい結核患者のために文字通り裸で働き通してきた人たち)がようやく停年に達し始めた。無一物でこの人たちを野垂れ死にさせては申し訳ない、このままにしておいてはそうなる、と我々若いものは考えた。言って見ればこれが老人ホームの芽生えであろう。たまたまディアコニッセのハニ姉妹が身寄りのない老人を助けることを神からの命としてきて、資金を得るため故国ドイツに帰っていった。3ヶ月の休暇帰国は不眠不休の募金行脚であった。思いもかけぬ多額の献金が予約された。いよいよこれは神の命であると、深い恐れを持ってハニ姉妹を再び迎えたのは1959年5月、老人ホームの建設の準備を始め始められたのはこの頃である。
そしてその責任者としてこの私に指名があった。しかし、私はこのことの決断のためにいかに多くの逡巡と祈りの時を要したことか。時至って引き受けることに決意し、一昨年11月よりこれに専従した。幸いに富士建築の協力を得、ハニ姉妹と図面を引くこと30数枚に及ぶと言うようなこともあって出来上がったのがこの建物である。昨年末、本年1月と関係各庁の認可を受け、いよいよ仕事が始められた。週余にして十数名の御老人を迎えた。大変な仕事であると初めて知り、同時に、やってよかった、ほんとうによかったと思うに至り、生涯をかけてこの仕事に挺身することのできる自分を幸福者だとしみじみ思っている。

『だれが特別養護老人ホームを創設したのか』 加藤 仁
介護福祉の月刊誌「おはよう21」より
加藤仁氏は聖隷や十字の園を取材をしてこの記事を書きました。連載途中で急逝され5回で終わりました。そこからの引用です。
特別養護老人ホームの原型が、日本で最初に姿を現したのは、昭和三十六年一月である。ただし、当時はまだ老人福祉法が制定されておらず、特別養護老人ホームという名称もなく、生活保護法にもとづく「保護施設」とされた。
ハニは、キリスト者にして教育家の羽仁もと子(1873~1952)にあやかり、自分の名を日本語で「羽仁」と表記するのをよろこんでいた。
ハニは西村ミサに語った。「長谷川先生は仕事を大きくしていくのが上手だから、だんだんに仕事が大きくなると、その心がなくなります。そのときが、きっときます」。
つづいて、ハニは西村に言う。「長谷川先生じゃなく、べつのひとに理事長になってもらって、べつの法人でやりましょう」。ハニは「聖隷」の職員が言えないようなことを、はっきりと言った。その決意には、ハニのひたむきさと聡明さが込められていた。
計画されたのは30床のホームであり、当初の見積りでは、建設費に備品などをくわえて「516万円」で建てられることになっていた。ただし、そこに土地代はふくまれていない。計画を早期に実現させるには「聖隷」の敷地を譲りうけるのが手っとりばやい。
ハニは当時の「聖隷」のあり方に、全面的には賛成できないという考えであり、鈴木生二は「長谷川さんに対してもね、多少の……。長谷川さんも当時は政治のほうにぐっと力が入っていたからね」と語っている。(『十字の園創立三十年記念誌』)。ハニと同意見の鈴木は覚悟を決め、長谷川保に新施設を開設するにあたって「別法人にしたい」「土地を譲っていただきたい」と告げた。長谷川保は、その申し出をうけいれた。鈴木によると「あのころ長谷川さんは、政治のほうで頭が一杯」であり、新施設にまで頭がまわらず、鈴木たちにまかせるのがいいと思ったようである。

長谷川力(聖隷福祉事業団・前理事長)は当時を述懐しながら言う。
「ハニさんは熱心でした。そこには、なにごともきっちりしないと気がすまないドイツ人らしい発想が込められていました。病棟の南側の廊下には、老人たちが日向ぼっこをするサンルームを設け、自分たち職員の仕事場は北側においた。一部の部屋には和室も備えた。利用者本位という考えに徹していましたね。開園してからは、老人たちの身長を測ってベッドや腰かけの改良をしたり、ポータブルトイレを考案したりしました」
特別養護老人ホームの原型が、日本で最初に姿を現したのは、昭和三十六年一月である。ただし、当時はまだ老人福祉法が制定されておらず、特別養護老人ホームという名称もなく、生活保護法にもとづく「保護施設」とされた。
(つづく)

Mutters Haus Journal第4号(2019.9.1) 

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浜松ディアコニッセ母の家・社会福祉法人 十 字 の 園  歴史探訪 No.4
一番困っている方の老人ホームに(鈴木フミ記)

施設を作る資金のために、ハニ姉妹は一時ドイツに帰り、ドイツのムッターハウス(母の家)の方たちや、教会、団体にいろいろ訴えて募金をしてきました。その当時で600万円ぐらい集まりました。では具体的にどうするかということになり、長谷川保さんにも相談しました。そして、今の十字の園のこの一角を、まだ聖隷の土地だったのを無償でいただくことの交渉が理事会でも了承されて、この土地で作ろうということになりました。当時は老人福祉法はできていませんので、いわゆる生活保護法を対象として作ることになりました。しかし、施設はハニ姉妹の考えのもとで、ねたきりとか身体の弱い人をお世話することを中心にしてやろうというものでした。

いよいよ老人ホームへの第一歩が

1959(昭和34)年9月、老人ホームの創設準備責任者に鈴木生二が推薦され、いよいよ老人ホームへの第一歩が踏み出されました。続いて10月、社会福祉法人聖隷保養園は老人ホーム建設の趣旨に賛同し、建設用地を無償譲渡することを決定します。同時に鈴木生二を現職の聖隷厚生園次長のまま、設立準備に専従することも決めました。
1960(昭和35)年に入ると、鈴木フミも長年にわたる聖隷病院での看護婦としての職を退き、老人ホーム開設に力を注ぎます。10月には綿鍋義典が十字の園に加わることも決定します。

準備(布団・シーツ・おむつ)(鈴木フミ記)

老人ホームを始めるに当たっていろいろな準備がありました。当時は、今ではとても考えられないのですが、物がないときでした。でも、その時に、ハニ姉妹の建設の準備の仕方が、実に、私はなるほどという感じを持ちました。それは、ハニ姉妹という方は、非常に個人、一人ひとりをとても大事にされ、日本のお年寄りをとっても愛されていました。布団までは揃えられなかったので、入る方に用意して持ってきていただこうということでした。しかし、シーツにしてもベッドでしたから、そのために大きいシーツが必要ですし、ねたきりの方には、お漏らしなんかもありますから、それに対する防水用のシーツも必要でした。そんなことから、始まる前には私たちは一日中ミシンを踏みまして、シーツから枕カバー、包布とか、またおむつを作りました。いろいろな準備をして、昭和36年1月21日にお年寄りをお迎えしたのです。

十字の園老人ホームの建築工事が始まる

いよいよ工事が始まりました。結核で聖隷保養園に入院、療養し、回復した大橋徳三も、重要な役割を果たしました。ブルドーザーの音を響かせ、トロッコを走らせ工事は進みます。礼拝が終わったあと、聖隷の職員もみんなで工事を手伝いました。大谷川には十字の大橋が架かります。その名は大橋徳三にちなんで付けられました。徐々に建物が立ち上がってきます。

「十字の大橋」の由来(綿鍋義典氏記)

大橋徳三さんは昔の聖隷保養園で長いこと営繕部の主任をしていた。ベテルホームに収容された重症の肺結核患者で、大喀血を反復し、そのたびに痰コップでは間に合わずホーロー鍋で受けたと記されている。もともと県庁の土木の技術吏員だった大橋さんは、病気回復後の体をいたわりながら、営繕の監督のような仕事を受け持ち、病棟やそのほか保養園内あちこちの修理などの仕事を切り回していた。
教会の礼拝堂の設計・監督も大橋さんだ。建設委員長の鈴木生二さんと組んでの仕事だった。教会の前から十字の園に至る道も大橋さんが設計・監督して切り開いた道で、それまでは原野だった。やはり十字の園を作るための、鈴木生二さんとの共同の仕事で、ツルハシとスコップというすべて人力の時代、掘った土はレールを敷いてトロッコで運び、盛り土に使った。難関は大谷川に橋を架けることで、土木技師としての大橋さんの面目発揮の場面だったのではないか。橋台・橋脚は一応コンクリート、橋桁には丸太を渡し、その上に角材を敷き詰めて土をかぶせた。それまでは、当時の准看養成所の生徒も、ディアコニッセの姉妹たちも、丸太に板を打ち付けた巾三尺ほどの仮り橋を唯一の交通路としていたのだから、この橋が出来るのを皆さん待ち望んだ。
「母の家」の初期の建物も(今はもう無いが)、当時は聖隷の所有であった朝霧荘から、物置小屋や鶏小屋を解体、運んで来て、それに新材を買い足しての新旧材料取り混ぜ建築だった。こういう工事こそ大橋さんの独壇場である。文字どおり「母の家」が竣工して、姉妹たちの喜びはいかばかりだったろうか。ハニ姉妹は感謝の祈りを捧げ、その建物のひとつを「大橋記念館」と名付けた。おなじく半コンクリート・半木造のその小さな橋に「十字の大橋」と命名されたのである。

社会福祉法人十字の園認可

1960(昭和35)年12月28日には、法人の認可がおり、翌1961(昭和36)年1月20日、生活保護法による保護施設としての、十字の園老人ホームがついに開設しました。最初の1年間はすべての職員の安い給料と、母の家の姉妹たちの無報酬に近い奉仕により支えられました。

Mutters Haus Journal第3号(2019.8.1) 

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浜松ディアコニッセ母の家・社会福祉法人 十 字 の 園  歴史探訪 No.3
ハニ姉妹は日本語で多くの手紙を書いています。

『ハニ姉妹の山小屋からの手紙』
愛する姉妹たち ご機嫌いかがでしょうか。
「怖いことあったらかならず書きます」と約束をしていましたから、わたくしは元気であることをお知らせいたします。この休暇は本当にいることです。こちらへまいりましてから、はっきり分かりました。毎日たくさん夢を見ます。台湾であったことも出てきます。やっぱり知らないうちに、まだ片付いていませんでした。いまはどこのためにでもお祈りできます。心たいへん静かになりました。
12日、高い山を三時間半歩きました。渋川へも歩いて行きます帰りも、。足も跳ねません。きょうは少し蒸し蒸し暑いので、渋川への道は少し難しかったでしす。
夜、一度、怖いことがあったから電気を注文しました。一二三姉妹、どうぞ生二さんに電気のことを知らせてください。
昨日13日は私の大事なことの記念日でした。6年前は祝福式の朝でした。その時の読まれた聖書は申命記でした。申命記8章18節『あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたに力を与えられるからである』。もう一度この言葉は大変な慰めになりました。いつまでも、いつでも、6年間愛なる力をいただきましたから、これからもどんなことに対しても、どんなことについても、自分の弱い罪の心ためにも力を得るでしょう。傲慢にならないためにいい言葉ですね。神さまが力をくださいます。自分の力でなく、主イエス・キリストはわたくしたちを救いましたから望みがあります。
もう一つ記念がありました。同じ13日午後、6年前、日本へ行くために別れの式がありました。テサロニケの第一の手紙5章23、24節『どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。』のみ言葉いただきました。この23と24節の『下さるであろう』という言葉で、このどのことに対してでも心配なくなりました。けれども、自分の怖さに対しても眠ってしまいました。ですから、皆さん目を覚ましていましょう。もちろん、昨日、大変静かな日曜日の礼拝の聖書と讃美歌といい説教も、大変いい本も読みました。けれども、浜松の母の家のことを考える時間もありました。わたくしたちは本当に主イエス・キリストの姉妹たちですから、どのようなところでお分かりになりますか?もしかすると悪いことあったら互いに赦すことをできましたら主イエス・キリストの姉妹たちでしょう。
わたくしたちは良いのではありません、良い人、イエス・キリストだけでした。ほかの人と比べますと、ちっとも変わりありません。けれども、一つかたく守りましょう。覚えましょう。主イエス・キリストが憐れんでいらっしゃる方ですから何でも赦して下さいます。そのいただいた赦すことを感謝しながら、兄弟姉妹にあげましょう。
今は、大雨のあとで大きいカラスが、おばあさんの畑で歩いています。けれども、こちらへきません。まだ石をかんで食べてはいけませんから、食事の時間を決めております。コーヒーがあっても全然飲みません。日曜日の午後だけ紅茶も一日一回だけです。朝のパン食のとき6時とあと12時ご飯です。少し長いと思いますけれども、それで大変元気になりました。午後も何も飲みません。お水だけです。夜のご飯を大変おいしくいただきます。お腹が空きますから。
今はあなたがたのために神さまに大変感謝します。養老院のために大変祈っています。わたくしはどうゆうふうになろうか、どうか全然見ることできません。けれども神さまご存知であること知っています。何でも神さまの手に委ねましょう。神さま養老院の2名いるのお金くださいましたから、道も場所も働く方も形をくださるであろう。一年前こちらいました時を思い出しました。皆さん謙遜なるために執り成しをください。浜松母の家は大好きです。
感謝、感謝、感謝。  昭和34年9月14日
(つづく)

渋川の山小屋のこと(新しい事実)

①渋川の山小屋は通称「みぎわのこや」です。
②渋川の土地和提供してくれたのは、聖隷の鈴木捷司さんだと鈴木唯男さんが言ったが、年齢からは捷司さんの親戚筋だったようだ。
③小屋の設計はのちに浜松市長になった栗原勝氏で、遠州教会の信徒でした。
④ハニ姉妹は、渋川の山小屋で夏の休暇をとっていました。そのときの食料や物資は、遠州鉄道バスの運転手にお願いして、三方原の辺のバス停で積み込み、渋川のバス停でまで届けたというエピソードもあります。

Mutters Haus Journal第2号(2019.7.1) 

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歴史探訪 No.2

ディアコニッセたちの活動
浜松へやって来たディアコニッセたちは、それぞれ病棟に入って仕事を始めます。長い祈りと決断の準備のときを終えて、遠い未知の国日本に着いた彼女たちにとっては、ここで備えられた仕事は何であろうかという不安と期待とがあり、一方では日本語の習得も急がなくてはなりませんでした。ハニ姉妹だけは、ドイツで日本語を学び始めていたということもあって、理解の早さ、表現力の豊かさ、一回やるごとに上達するその早さには、目覚ましいものがありました。また、一人でどこへでも入って行くことができ、どこででも優れた能力を発揮することができました。病棟看護では優れた観察力により、聖隷の優れた看護方法を習得し、手術室看護婦としても優れた技術を持っており、医師からは高い信頼を得ました。1954年4月、准看護婦養成所教務主任が、病気のため1年休職することになると、その代行を勤めるまでになっていました。

牧師館がディアコニッセ母の家に
やがて牧師館が4人のディアコニッセの住居となりました。後に日本人ディアコニッセ第1号となる山浦ミツ、市川一二三の2人の日本人見習いシュベスターとの、共同生活が始まりました。ここに名実ともに母の家ができあがったのです。1954(昭和29)年10月29日のことでした。
奥三河の山小屋(みぎわの小屋)の夢
それから3年近い月日が流れた夏のことです。三方原とは山を隔てた、奥三河に近い渋川に、小さな小屋がありました。その小屋にハニ姉妹がいたときのことです。その夜、接近する台風に伴う大雨が、渋川を襲いました。小屋のそばそそり立つがけが崩れて落石があったので、一番大きな石がまともに小屋をめがけて落ちました。不思議にもそれは建物を避けて床下に滑り込み、ハニ姉妹の命は助かりました。
ハニ姉妹はじっと祈り続けました。そのときある光景が彼女の脳裏に浮かび上がました。家族が働きに出たあとの農村の家では、おばあさんやおじいさんが一人で寝ているのです。お年寄りは一人で寂しく、話しをする相手もいません。ハニ姉妹は思いました。
私たちの老人ホームは、一人で寝ている老人のためこそなければならない。神様はきっと、私にそのことを命じておられるのだと。

祖国ドイツの教会や母の家から献金
1959(昭和34)年、ハニ姉妹は祖国ドイツに、老人ホーム建設のための資金を求める旅に出ました。それは船で2カ月もかかる旅でした。6年目にして初めての帰国でもありました。彼女は日本の風物、人情、生活を紹介する芝居をつくって、ドイツの母の家で演じて回りました。芝居の道具や衣装の入った大きな荷物を担いで、母の家から母の家へと、興行の旅を続けたのです。4カ月のあいだにドイツの母の家のディアコニッセ、諸教会の信徒たちから献金600万円が、新しい老人ホーム建設のためにささげられました。

神様の力の大きさでやりたい
日本に帰ってきたハニ姉妹は、「日本人の仕事は日本人でやるべきです。私たちドイツ人は、ただそれを手伝うことだけです」と述べ、献金をすべて建設費用にと差し出しました。ハニ姉妹は、新しく作る老人ホームは聖隷の法人ではなく、別の法人を作ってやりたいと考えており、西村ミサに次のように話しました。「聖隷は大変大きな施設たくさんあります。長谷川先生もっとたくさんにするでしょう。長谷川先生の信仰の力大きいからです。長谷川先生いなくなったら、だんだん人間の力大きくなります。神様の力なしの、人間の力でするようになります。そのときまでもいつまでも、老人ホームは神様の力の大きさでやりたい。私たち働く人、みんなキリストの十字架のもとでだけ、一つになって働く団体にしたい。そのため別の法人にしたい。分かってくださいますか。いけませんか」と。この意を受けて、新しい老人ホームは別法人として発足することになります。

Mutters Haus Journal創刊号(2019.6) 

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歴史探訪 No.1

1934(昭和9)年9月、賀川豊彦の助言により、御殿場で開催された「イエスの友会」全国大会にて、長谷川保は、聖隷社の窮状を訴え、その結果、一坪献金運動が決議されました。この大会の中で「物言う手」が上映されました。この映画は、ドイツ・ベルリンのノアウエ聾盲唖院の、生まれながらにして聾盲唖(三重苦)のため、人間としての喜び得ることが出来ない人のために、聞くこと、話すこと、読むことの教育(訓練)の実践を映画にしたものです。全国から寄付が集まり、この資金により県から払い下げられた三方原の広大な土地を手に入れました。結核のための療養所は移転し、1936(昭和11)年に聖隷保養農園が設立します。十字の園の初代理事長の鈴木生二は、1945(昭和20)年、兄鈴木唯男がいる聖隷保養農園に務め始めました。
1945(昭和20)年、軍需産業都市・浜松の街は、徹底的な空襲や艦砲射撃によって焼野原になりました。終戦を迎えた時、野戦病院と化した聖隷保養農園で、長谷川保たちはキリスト教精神に基づいた祖国の復興を誓い合います。1946(昭和21)年、長谷川保は、戦後初の第22回衆議院選挙に立候補し見事当選を果たしました。国会議員として、生活保護法の制定に力を注ぐなど政治を通して、キリスト教精神を基に社会福祉政策の具現化を図っていきます。
ブレーメン教区長、スイス、ドイツ、オーストリア、深夜伝道協議会議長であったP・G・メラー牧師が、同じ敗戦国である日本の社会状況を視察するために来日しました。賀川豊彦、長谷川保らに出会い、戦後復興のドイツよりはるかに遠い日本の現状を見ました。特に上野駅地下道に群がる戦争孤児たちに心を痛めました。「日本の教会は、どうしてこれに手を付けないのか」と疑念を表明し、「必要ならドイツのディアコニッセを派遣することができる」と提案しました。しかし日本のキリスト教団には、これを受け入れる用意がありませんでした。結局、長谷川保が引き受けることになりました。
1953(昭和28)年11月15日午後4時、アトラス号に乗って、ドイツ・カイザースヴェルトより5人のディアコニッセと1人の婦人宣教師が横浜港に到着しました。ディアコニッセの団長はイルムルード・フォン・ハウグイッツ(1913年5月7日生)フランクフルト母の家、ヤンセン・フリーダー(1925年7月21日生)ブレーメン母の家、ヘルミネ・エルゼ・ペルミツ(生年不明)ドレスデン母の家、ドロテヤ・メンデ(1924年12月4日生)ヴェッセル・ブレーメン母の家、ハニ・ウォルフ(1914年5月5日生)ミュンスター母の家の5人と、宣教師の宣教団体ミッドナイト・ミッションから派遣されたエリザベート・ストローム(1922年・南ドイツ・ウルムの小さな村生)です。 当時の横浜港から浜松までの様子を8ミリで撮影した「ディアコニッセの来訪」のビデオで見る事ができます。
長谷川保らの出迎えを受けた一行は、長谷川保の引率で、東京に行き、国会議事堂前で来日の記念の写真を撮りました。それから汽車に乗って浜松駅に到着しました。
三方原に到着したディアコニッセたちは、大勢の人々の歓迎を受けました。一人一人名前を呼ばれて起立したのであるが、「最後のハニ・ウォルフが、床をけるように勇ましく立ち上がった姿が、今も鮮やかに思い出される」と、後に語ったのは、その後、彼女の日本語の教師となり、よき相談相手となった西村ミサです。