歴史

十字の園に関わった人たちを紹介

長谷川保・八重子 「ハニ姉妹からのすばらしいアドバイスとアシスト」
ハニ・ウォルフ姉妹 「長谷川保氏らの招きで日本へ」
鈴木生二 「ハニ姉妹の推薦で老人ホームへ」
綿鍋義典 「四半世紀十字の園と歩み続けた人」
森本節夫 「せっかちで親分肌のクリスチャン」
平井 章 「創立の精神の継承をした『ほどほど』の人」
山浦光子、市川一二三 「ハニ姉妹を慕い、奉仕を実践した日本人」
西村一之、西村ミサ 「教会と、教育と、ハニ姉妹」
林 冨美子 「年寄りが『ハッピーエンド』であるように」

ハニ姉妹からのすばらしいアドバイスとアシスト

長谷川 保(1903.9.3~1994.4.29)
ドイツから来日し、聖隷保養農園で看護婦として、浜松ディアコニッセ母の家の責任者として奉仕していたハニ・ウォルフ姉妹も同様のことに着目します。「長谷川先生!先生は社会保障制度確立のため一生懸命努力しているのに、このかわいそうな病気の老人をなぜ老人ホームに入れられないのですか?」と問題提起します。「老人ホームの働き手が足りないから」と返答すると、「世の中の人ができないなら、それはイエス様が教会でやりなさいと言っておられることなのです。教会でやりましょう。」と問いかけをしました。建設資金や場所、人手等の課題を、ハニ姉妹の母国での献金の旅による資金づくりや、鈴木生二氏の老人ホーム建設準備責任者への転出、聖隷保養園敷地の無償譲渡により、「十字の園」は生活保護法の養老施設として1961年(昭和36年)1月、入所定員30名でスタートします。
「十字の園が特別養護老人ホームのモデルケースに」
十字の園が誕生すると、早速、厚生省に報告して、社会局長に視察を奨め、担当課長同行で来訪すると、自らが案内役となって施設内容や老人たちの姿を紹介しました。厚生省幹部は「これはどうしても日本中に建設しなくてはならないと思います。十字の園をねたきり老人ホームのモデルにしましょう。また、病院と隣り合わせにできているのも極めて適切だと思います。長谷川先生、ハニさん、まことにありがとうございました。」という厚い礼を述べて帰っていきました。その2年後、厚生省は老人福祉法案を国会に提出。1963年(昭和38年)7月11日法案は可決成立となり、老人福祉法が後押しとなって、全国に特別養護老人ホームが続々と建設され、今日では7,705施設530,280床(平成28年度現在)まで広がりました。社会事業にかけた長谷川氏の熱意と、ハニ姉妹の祈りに基づいたお年寄りへの温かい目、粘り強い実行力の持ち主の鈴木生二氏、さらに優秀で奉仕の心に溢れたスタッフたちが手を携えた結果、十字の園が生まれ、現在のような姿になったといえます。
十字の園での長谷川氏のエピソードとして、夜間看護と昼のシーツ・オムツの洗濯を担当していたハニ姉妹が疲れて洗濯できない時、衆議院議員である長谷川保と八重子夫人が、度々ピンチヒッターとして洗濯をしに十字の園に来ました。聖隷の最初の事業「聖隷社クリーニング店」を興した経験をもっていたので、洗濯屋としてはプロ中のプロだったのです。

長谷川保氏らの招きでディアコニッセとして日本へ

ハニ・ウォルフ(1914.5.5~1996.10.27)
十字の園の創設の母ともいえる人。1914年、イギリス・リバプールで生まれるが、幼くして父を亡くしたため家族でドイツに移住。1931年(昭和6年)、ベクトリア学校リセウム部を卒業後、1945年(昭和20年)までは栄養士の資格を生かして、家事家政の指導者として働かれました。1946年(昭和21年)からはウエストファーレンのミュンスター母の家でディアコニッセとしての奉仕を開始。1945年に戦後すぐの日本を訪れたドイツ人P.G.メラー牧師と賀川豊彦氏、長谷川保氏らの約束によるディアコニッセ日本派遣団のメンバーに加わり、他の4人の姉妹たちと一緒に、1953年(昭和28年)11月船で横浜港に着き、未知の国日本の地を踏みます。

「高齢者社会を予見して老人ホーム建設へ」
ある日、話し相手であり相談相手でもある西村ミサ氏との会話の中で、「聖隷保養園で長い間結婚しないで働いてきた人はディアコニッセと同じです。難波婦長さん、鈴木まつ婦長さん、その他いろいろの人、その人たちが年老ったらどうするんですか。私たち考えないといけないんじゃないですか。もうすぐ年老った人だんだん出てきますよ。」と語りかけました。その後、東京や各地の老人ホームを何か所も訪問視察します。小さな部屋でも自分の所がないとだめとか、老人ホームと老人病院が近すぎるのは問題だとか、神が創造し、愛された人間の生命の一つひとつへの尊敬と愛惜の思いから生まれたものばかりでした。そして、1957年(昭和32年)、台風で九死一生を得た後、独り暮らしのおばあさんの夢を見て、「私たちの老人ホームは、やっぱり一人で寝ている老人を先にしなければなりません。神様、きっと私に命じています。」と、老人ホームの実現を心に誓われました。1959年(昭和34年)1月、ついに本格的な行動をスタートします。老人ホーム建設資金を祖国ドイツに求めるため一時帰国。日本の風俗、人情、生活を紹介するための芝居を上演しながら、ドイツ各地を巡る4ヶ月間の募金の旅でした。出演者としてドイツの若いプロヴェンシュベスター(見習い姉妹)たちの協力や、ドイツ母の家のディアコニッセ、諸教会の信徒たちの協力により、600万円もの献金をいただいて4月に再び日本へ。この献金(建設資金に相当する額)がもととなって、日本で初めての特別養護老人ホーム(老人福祉法制定前で、生活保護法による養老施設)建設の運びとなったのです。

「ハニ姉妹の推薦で老人ホームへ」 

鈴木 生二(1916.7.6~1988.9.17.)
結核患者のアフターケア施設聖隷更生園を創設、責任者(次長職)として、社会復帰のためのサポート体制に心血を注いで取り組んでいた。1959年(昭和34年)ころに、ハニ姉妹や浜松ディアコニッセ母の家の人たちが、老人ホーム創設準備責任者に推薦され、創世記12章1~4節の「時に主はアブラハムに言われた」の言葉どおり出向いて行かれたのです。約半年後の1961年(昭和36年)1月、浜松十字の園は開園。園長として6名のスタッフとともに定員30名の入所者の奉仕を始めました。鈴木生二氏は宗教改革者ルターの著書「キリスト者の自由」をを自らの信念としていました。そして、職員にも職員各自がこの信仰にしっかり立って、のびのびと自由に仕事を進めてもらいたいと語り、自らも実行されていました。このことが「鈴木生二さんは放任主義の人。指導者ではなく、われわれと肩を並べてやっていく一同労者、そういう人なんです。」「生二さんは指導しない、ホントに自由奔放の人。語らない人ですから、みんなを鼓舞激励するタイプじゃない。しかし、ご自身が聖書の言葉に信頼し、聖書の言葉について祈り、決断し、実践していくから、みんなも心から尊敬し、信頼して従っていったと思う。指導はしないけれど、やはり指導者ですね。」という声につながっていったといえます。

「安住するな、初心に還れ」
1971年(昭和46年)4月、御殿場に「御殿場十字の園」を創設。10年後1981年(昭和56年)4月に、「伊豆高原十字の園」を開園した時、もう一度原点に立ち戻り、入所定員50名の特別養護老人ホームをつくり、「私はここで、過去20年間やってきたこと、20年積み重ねてきたことを、そのままここで継続したいとは思いません。皆さん新しい人と一緒に新しい心で取り組みたいのです。私も一からやり直すつもりで、皆さんと一緒にご老人の処遇を考え、ここで完成品をつくりたいのです。」と決意を語りました。「安住するな」「初心に還れ」という鈴木生二氏の新しい戦いに挑む姿勢が聞こえてきそうです」。約4年後の1985年(昭和60年)1月、法人理事会から帰園する途中に突然病に倒れます。脳腫瘍による発病でした。療養を続けますが1988年(昭和63年)9月17日、70歳で召天されました。寡黙な鈴木生二の最後の言葉は、「自分の人生は良い人生だった。これはお母さん(妻フミ)のおかげだった」と子どもたちを前にほんとうに絞り出すように残したそうです。

「四半世紀十字の園と歩み続けた人」 

綿鍋 義典(1928.12.4.~1996.8.6)
十字の園第2代理事長を務めた「謙遜」の人。1961年(昭和36年)1月に、十字の園老人ホームが開園すると同時に、聖隷から異動になりスタッフに。数少ない男性職員として、男性入所者のお世話に当たられました。「僕は男子の入浴介助を当初からずっとやりましたが、介護の中で一番大変なのは入浴だね。また、お年寄りが喜ぶのも入浴だね。そこで職員の負担を少しでも軽くしようと、1974年、スウェーデン式介助浴槽アルジョを何とか設置したいと募金運動をして、日本で最初の特殊浴槽(ねたきり老人用機械浴)が購入できた。この浴槽に入って、近隣市町村の在宅ねたきり老人の入浴サービス(無料)が実施できて喜ばれた。嬉しかったね。」との言葉が残されています。綿鍋氏の日常は施設に隣接した職員宿舎に居住し、昼夜を問わず老人福祉に全身全霊を傾け、どんな小さな行為にも感謝の心を忘れない人でした。鈴木生二氏が切り開かれた老人福祉の道を、アドナイ館を創るなどさらに道を広げ、継承していかれた人といえます。約四半世紀にわたり十字の園と歩み続けました。その後、ホスピスに入院され、病床でいつも讃美歌を歌っていました。

「せっかちで親分肌のクリスチャン」 

森本 節夫(1943.10.9~2000.8.20)
陸上自衛隊から1970年に浜松十字の園に就職された備前岡山出身の一見異色な人。1971年26歳の時、御殿場十字の園開園と同時に鈴木生二氏のもとに移り、片腕となって老人福祉に取り組みました。御殿場十字の園園長、浜松十字の園園長、その後、聖隷福祉事業団に出向し森町愛光園の創設に参画。綿鍋氏辞任の後第3代理事長に就任。再び御殿場十字の園園長に就任して、総合福祉施設としての全面改築事業や御殿場アドナイ館の創設に全力で取り組まれました。2000年8月20日に56歳の若さで召天されました。奥様の言葉を借りると森本氏の性格は、せっかちで几帳面。しかし仕事面では即断即決、行動の人でした。「責任は自分がとるから結果を恐れず思い通りやりなさい」という「親分肌」であったと、同じ職場の皆さんが揃ってその人柄を慕うほどに心温かな人でした。せっかちといえば、病が見つかった1997年元旦に、「今ここに平安のうちに地上の生涯を終えて永遠の命が与えられ、天国に凱旋し、イエス・キリストの御懐に抱かれる。感謝、感謝、感謝。」の言葉を早くも遺されています。召命により自衛隊を退職して十字の園に入り、老人福祉を全力で走り続けました。

「創立の精神の継承をした『ほどほど』の人」 

平井 章(1947.7.9~  )
1999年8月御殿場アドナイ館の入札を終えた帰路、森本氏は車の中で理事長の辞任を平井章氏に告げた。理事会を開き、4代目理事長に選任された。平井氏は器用な人で、何事も器用にこなす。また新しいもの好きで、パソコンが出始めると早速購入し独学で覚えていく。とは言っても「完璧主義」ではなく「ほどほど主義」ということが該当するだろう。ある雑誌に「転職して再就職したのがキリスト教精神で運営する特別養護老人ホームでした。就職して一週間後に長女が誕生し、施設では毎朝礼拝があり、毎日曜日には教会に行くという新しい生活が始まりました。老人ホームに目の見えないクリスチャンの利用者がおりました。今自分にできることとして、朗読による聖書テープを作ることを始めました。大変でしたが、貴重な経験でした。その年のクリスマスに、92歳の利用者と同僚2名と0歳の長女と共に受洗しました。28歳の時でした。どんな人も巧みに用いられる神の計画でしょう。何事にも精一杯打ち込むのが、どうも私の性格で、人から「疲れませんか、身体を大切に」と言われますが、仕事も福祉、家でも福祉、恵みに満たされています。」と記しています。

「ハニ姉妹を慕い、奉仕を実践した日本人」 

山浦光子姉妹 (1919.1.9~2018.10.13)
市川一二三姉妹 (1922.6.13~2011.12.31)
聖隷保養農園で看護婦として働いている時に、ディアコニッセの話を聞き、出会えることを心待ちにしていました。1953年11月にハニ姉妹たち5人のディアコニッセが来日し、聖隷保養園で奉仕を始めると姉妹たちとの交流の機会が増え、ディアコニッセ志願の志を表明、1954年6月27日立志式が行われ、ディアコニッセの道を歩き始めました。その後、新しい見習姉妹志願者も加わり、母の家が活発化する一方で、ハニ姉妹を除く4人のディアコニッセは帰国の途へ。一人残ったハニ姉妹を光子姉妹と一二三姉妹が支えて浜松ディアコニッセ母の家の運営をしていきます。その後、ハニ姉妹が老人ホームのことを考え始めると、西村ミサ氏を加えた4人でいろいろな相談を重ね、実現に向けて協力していきます。1961年1月、十字の園老人ホームの開園を迎えると、二人とも、十字の園老人ホームの働きに参加しました。ハニ姉妹が帰国後も、ハニ姉妹が標榜した「十字の園は伝道とディアコニー(奉仕)の団体」の精神を守り奉仕を続けました。最期は、一二三姉妹は浜松十字の園で、光子姉妹は第2アドナイ館で召天しました。

「教会と、教育と、ハニ姉妹」 

西村一之・ミサ
聖隷保養農園の長谷川保氏より「キリスト教を、論理的に筋道を立てて考える牧師が欲しい」との誘いを受けて、まず、1950年西村牧師は単身で赴任、1951年5月に結婚し、ミサ夫人とともに浜松へ。この時代、ディアコニッセとして来日し、聖隷保養園等で奉仕をしていたハニ姉妹とともに、1954年11月に結成された「浜松ディアコニッセ母の家理事会」において、西村牧師は家長に、ミサ夫人は理事となり母の家を支えていきます。理事長は長谷川保。ハニ姉妹の構想により老人ホーム設立計画が始まった時には、ミサ夫人はハニ姉妹の熱意のサポート役として一緒に行動し、ハニ姉妹の老人ホーム視察に同行したり、建設資金作りに一時帰国する際の寄付金集めの台本づくりを手伝ったりと公私ともにすばらしいパートナーの関係を築かれました。西村牧師は、ディアコニッセ運動を研究するため、1956年6月に渡独。その経験を浜松ディアコニッセ母の家の運営に生かされました。西村一之・ミサ夫妻は、祈りと看護婦教育の両輪と、ハニ姉妹との結びつきで十字の園に深く関わられた人でした。

「年寄りが「ハッピーエンド」であるように」 

林 冨美子(1907.10.7~2007.9.12)
御殿場十字の園と林先生との結びつきは1971年正月明けの頃、鈴木生二園長の訪問を受けたことに端を発します。噂に聞く鈴木園長の出現に、深い感激を覚えて「4月の開園までに適当な医師が見当たらない場合は、私の診療所は午前だけにして切り上げ、午後は十字の園に参上いたしましょう」と返事をされました。鈴木フミ婦長は「林先生はとてもお年寄りを大事にされ、よく声をかけられました。『まず耳をもってお年寄りのことを聞くこと。それによってお年寄りの心のお手伝いをしていくこと。』を率先して実践されておられました。」と記されています。林先生は、十字の園やハンセン病との働きを「人間の一生のドラマに例えるなら、私はその緞帳を引く幕引きの役目をしてきた。その老人の最後が「ハッピーエンド」であるか、悲劇で終わるかは、私の手の内にあるような重みのかかった仕事である。臨終の老人の眼がしらにたまった一滴の涙を拭ってあげながら、「ほんとうにこれでよかったのだ」と死者にも自分にも言い聞かせるような、いつまでもその死が心にジンとくるような、教訓に満ちた老人の死を送り迎えしている私です。」と言っておられます。