人格を尊重し、生きる喜び、生きる自由、生きる希望を創ります。

機関紙投稿

ムッターハウスジャーナル

Mutters Haus Journal第7号(2019.12.1) 

社会福祉法人十字の園 資料館 パネル

十字の園ゆかりの人物パネルの説明(2) ハニ・ウォルフ

1914.5.5 イギリス・リバプールに生まれる。父が早くなくなったため、
     家族はドイツ移住。ハニ姉妹は兄弟たちとドイツで育つ
1946. シュベスターとしてディアコニッセに加わる
1953.10.19 シュベスターとしてディアコニッセに加わる
1954. 准看護婦養成所臨時教務主任代行
   第1回浜松ディアコニッセ母の家理事会開かれる
1959.3 ハニ姉妹一時帰国(1月~4月)滞在中600万円の献金を受ける
1959.12.29 法人設立準備会開かれる
1961.1.20 十字の園老人ホーム開園
1966.3  ハニ姉妹帰国(帰国にあたり、厚生省より感謝状受ける)
   帰国後、アイゼンハイムの老人ホームの責任者として働く
   70歳からは母の家で事務仕事や、会計、教会の献金の仕事を担当
1996.10.27 82歳で召天

高齢者社会を予見して老人ホーム建設へ

 ある日、相談相手でもある西村ミサ氏との会話の中で、「聖隷保養園で長い間結婚しないで働いてきた人はディアコニッセと同じです。難波婦長さん、鈴木まつ婦長さん、その他いろいろの人、その人たちが年取ったらどうするんですか。私たち考えないといけないんじゃないですか。」と語りかけました。ドイツのディアコニッセには老後の施設が整っていたことからだと思われます。その後、東京や各地の老人ホームを何か所も訪問視察します。小さな部屋でも自分の所がないとだめとか、老人ホームと老人病院が近すぎるのは問題だとか、神が創造し、愛された人間の生命の一つひとつへの尊敬と愛惜の思いから生まれたものばかりでした。1957年、台風で九死一生を得た後、独り暮らしのおばあさんの夢を見て、「私たちの老人ホームは、やっぱり一人で寝ている老人を先にしなければなりません。神様、きっと私に命じています。」と、老人ホームの実現を心に誓われました。
 1959年1月老人ホーム建設資金を祖国ドイツに求めるため一時帰国。日本の風俗、人情、生活を紹介するための芝居を上演しながら、ドイツ各地を巡る4ヶ月間の募金の旅でした。出演者としてドイツの若いプローベンシュベスター(見習い姉妹)たちの協力や、ドイツ母の家のディアコニッセ、諸教会の信徒たちの協力により、600万円もの献金をいただいて4月に再び日本へ。この献金(建設資金に相当する額)がもととなって、日本で初めての特別養護老人ホーム(老人福祉法制定前で、生活保護法による養老施設)建設の運びとなったのです。

浜松ディアコニッセ母の家案内 No.2

(前号より)
○ディアコニッセ志願者として、ディアコニッセ母の家に迎え入れられたものは、6週間ないし8週間を請願期間とする。 その後、ディアコニッセのしるしとして制服を着用し、たがいに姉妹と呼称して生涯を通す。万一ディアコニッセ母の家を出る場合はその制服を返却し、以後それに類する服装をすることができない。
○ディアコニッセ志願者はその職務につくまで見習として数年をすごす。
この期間にすべての修業と訓練が行われる。この期間の終りに、母の家当局の認定と自己の使命の承認とによって、ディアコニッセという教会的教務につく祝福式を受ける。そしてディアコニッセとして神から命じられた努めのために終身生活をする。
○ディアコニッセ母の家において、ディアコニッセ見習期間中に次のような課程を受ける。
  1.新旧約聖書。
  2.聖書におけるディアコニー。
  3.母の家ディアコニーの歴史。
  4.キリスト教倫理(教理問答)。
  5.教会史。
  6.その他一般教養科目。
  7.教会奉仕のために必要な手芸。
 志願者はすでに何らかの技術学問を習得してもよいが、原則としてディアコニッセ母の家においては、修練期間のはじめにおいて特に家政の修業をなし、後看護婦養成所に入所して看護婦としての資格をうける。
○修練の途中、また聖別を受けて後も、ディアコニッセ母の家を出ることができる。
 その時は、主イエス・キリストの命に従い、信頼をもってあらかじめ、母の家の指導者に相談をする。(結婚の場合も、この方法によって可能である。)
(つづく)

浜松ディアコニッセ母の家・社会福祉法人 十 字 の 園 歴史探訪 No.6

「聖書の旅」その1     市川一二三姉妹
 シナイ山、イスラエル、アテネ。棕梠の主日はエルサレムで迎えた。棕梠や、オリーブの枝を手に手に讃美歌を歌いつつオリーブ山から十字架の道への行進に出会った。ガリラヤは春で、美しい花々が咲き乱れていた。私たち一行は、ゲネサレ湖畔キブツで一泊した。朝まだき、静かなゲネサレの岸辺にひとときを佇んだ。さざなみが銀色にきらめき出してゲネサレの夜は明けた。ペテロの召命、そして『夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた』あの復活の主と弟子たちとの出会い、限りない赦しと、あらたな創造へと呼び出したもう復活の主の恵みのお言葉が心に迫り深い感動に包まれた。このゲネサレ湖岸で最近2000年前のものと推定される木船が発見され、湖岸の水中に保管されてあった。ギリシャでは、パウロの第二、第三伝道旅行の地へ。コリント海峡を通り、コリント遺跡、パウロが誓願を立てたケンクレアへ。ケンクレアは女執事フィベの故郷でもある。最後はアテネのアクロポリス、アレオパゴスの丘を見学、帰途についた。聖書の旅は主に導き出され、支えられた恩寵の旅であった。感謝。

「聖書の旅」その2    山浦光子姉妹
 聖地イスラエルの世界が心に甦る。恵みのうちに聖書の旅のエジプトのカイロに一泊し専用バスで出発。指導者モーセによってエジプトをイスラエルの人々が脱出したそのコースを辿って、岩石砂漠のただ一筋の道を走りに走った。スエズ運河を渡り、灰色の山ひだの連なるシンの荒野を南下して走り続ける。砂漠の中のオアシスのある所で石の塀垣で守られるように小さな礼拝堂があった。カトリックの教会である。教会を後に車はなおも南へ走る。夕闇の迫る頃、赤い岩肌をさらし天に向かってそびえ立つシナイ山の麓のホテルに到着した。小石と砂の平地が目の前の山裾まで広がり、そこに石を積み重ねた洞窟のような家が点在していたが、そこがホテルであった。日中の荒野は30度位と聞いたのに、空を仰ぐと、身近に星が輝いているように感じられた。荒野の厳しさはいばかりか知ることはできない。豊富な水に恵まれている私たちはただ感謝あるのみ。

母の家のクリスマス

 母の家ではクリスマスが近づくと生誕物語の木彫りの人形を飾ります。
 近所の子供が見にきます。ドイツ風のツリーなど、写真で思い出を辿ります。プレセピオとはイタリア語で「飼い葉桶」の意味で、フランスでクレッシュ、ドイツではクリッペと言います。
 母の家には、3つクリッペがあります。資料館に飾ってありますので見て下さい。

Mutters Haus Journal第6号(2019.11.1) 

社会福祉法人十字の園 資料館 パネル

十字の園ゆかりの人物パネルの説明(1) 長谷川 保

1903.9 浜松市生まれ
1926.4 「聖隷社」創業
1942.8 聖隷保養農園設立。常務理事就任。
1946.4 衆議院議員。生活保護法制定尽力
1952.5 (福)聖隷保養園の理事長に就任。
1961.1 十字の園理事
1963.7 老人福祉法公布。同法制定に貢献。
1980. 9 聖隷祉事業団理事長退任。会長。
1994.4 90歳で召天

ハニ姉妹からのすばらしいアドバイスとアシスト

 このころ、ドイツから来日し、聖隷保養農園で看護婦として、浜松ディアコニッセ母の家の責任者として奉仕していたハニ・ウォルフ姉妹も同様のことに着目します。「長谷川先生!先生は社会保障制度確立のため一生懸命努力しているのに、このかわいそうな病気の老人をなぜ老人ホームに入れられないのですか?」と問題提起します。「老人ホームの働き手が足りないから」と返答すると、「世の中の人ができないなら、それはイエス様が教会でやりなさいと言っておられることなのです。教会でやりましょう。」と問いかけをしました。建設資金や場所、人手等の課題を、ハニ姉妹の母国での献金の旅による資金づくりや、鈴木生二の老人ホーム建設準備責任者への転出、聖隷保養園敷地の無償譲渡により、一つひとつ解決していき、「十字の園」という別法人名で生活保護法(新法)による許可を受けて1961(昭和36)年1月、入所定員30名でスタートします。
 十字の園での長谷川のエピソードとして、夜間看護と昼のシーツ・オムツの洗濯を担当していたハニ姉妹が疲れて洗濯できない時、衆議院議員である長谷川保と八重子夫人が、度々ピンチヒッターとして洗濯をしに十字の園に来ました。聖隷の最初の事業「聖隷社クリーニング店」を興した経験をもっていたので、洗濯屋としてはプロ中のプロだったのです。
 社会事業にかけた長谷川の熱意と、ハニ姉妹の祈りに基づいたお年寄りへの温かい目、粘り強い実行力の持ち主の鈴木生二、さらに優秀なスタッフによって十字の園が生まれ、現在のような姿になりました。

浜松ディアコニッセ母の家案内 No.1

 ドイツからディアコニッセを受け入れるに合わせて日本の教会等に募集の案内を創って配布した。
浜松ディアコニッセ母の家案内
 ディアコニッセは神の言に従い、主イエス・キリストの愛を感謝し、聖霊の助けを信頼しながらあらゆる種類の助けを要する人々に対する奉仕をするものである。如何なる業も、主イエス・キリストの兄弟姉妹への奉仕であるから、何等の報酬を求めない。(マタイ25・36―46)
○ディアコニッセ母の家は、ディアコニッセの故郷である。
 すなわち、会合と教育、修練と確証、派遣と指導、後援と庇護の場所である。ディアコニッセの団体は信仰と奉仕の生活の共同体である。従ってディアコニッセ相互の間には仕事の種類からくる上下の関係はない。また、ディアコニッセとディアコニッセ母の家との間にはいかなる労働法的関係もない。
 ディアコニッセは奉仕によって、ディアコニッセは母の家にもたらした収益のうちから、生活のために「必要な一切のものを受ける。
すなわち、住居、祝辞、制服(常時着用)小遣、奉仕に必要な職業訓練、一年に一度の休暇、老後の生活に必要なすべてのもの、疾病時の看護。
○ディアコニッセ母の家に入ることを志願するものは次の条件と手続きとを必要とする。
1.主イエス・キリストに奉仕せんとするものであること。
2.新教教会において、洗礼を受けた婦人であること。
3.18才以上の未婚者であること。ただし、子女、及び扶養者をもたない未亡人でもよい。
4.満20才以下の場合は保護者の同意を必要とする。
5.所属教会の推薦状。
6.最終学校の卒業又は終業証明書。
7.医師の診断書。
8.戸籍抄本。
9.自筆の履歴書にそえて、「何故私はディアコニッセになりたいか」についての作文。(つづく)

浜松ディアコニッセ母の家・社会福祉法人十字の園 歴史探訪 No.6

「十字の園老人ホーム」 要覧
 近年医療制度や医薬品の進歩により、わが国もようやく欧米の文化国家並みに死亡率が減少しましたが、その反面老齢人口が増加しております。この中には家族制度の崩壊から孤独な余生を送っている老人や、生活保護に頼らなければ生活できない老人がかなり多く、いずれも不安な日々を送っている現状であります。統計等によれば老齢人口はさらに増加することを予想していますが、また生活保護法に頼る老人も漸増の傾向と聞きます。勿論、国においても老齢福祉施設の増設、老人福祉センターの設置等積極的な施策を進められておりますが、老人施設の収容力は公私ともになお不足している現状であります。以上の現状を見渡す見過ごすごしていることができず、十字の園の理事会は老人ホーム設立の件を満場一致で議決、直ちに設立準備にとりかからんとするも基金の問題で壁につきあたり困惑していた時、浜松ディアコニッセ母の家のシュベスー(奉仕女)がドイツを中心に募金運動を決意し、昭和33年12月から3カ月間休暇を献げてこのために骨身を惜しまず献身的努力の結果、ついにその祈りが聞かれ、ほぼ設立に必要な基金を集めて帰国、昭和35年5月5日についに定礎式を行うまでに至り、同年10月31日に建物の竣工を見た。その後、「世界の糧(パン)」の団体、あるいはアメリカの在留邦人のキリスト教会の婦人会、近くは国内のキリスト教会、婦人会、一般各位等々からの心よりの献金に支えられ、まず30名を収容する完備したホームの設立を見たが、当園での特色としては、外国にはすでに行われております看護老人ホームのひな形にも似た、病弱者用ベットの部屋を設け、脳溢血の後遺症など常時医者を必要としないが看護を必要とする病弱者、失禁者で1日60枚ものオムツを使用するような老人、約20名を看護しております。ややもすると光明を失いがちな病弱者も、キリストの復活の信仰に接することにより、明るく生きがいを感じ日々の歩みを楽しく賛美しつつ送っております。健康者も自己の生来保持する技能を生かし自発的に山仕事に、畑の整地に、思い思いに工夫をこらして生活を楽しんでおります。
したがって入園後は非常に若返り、老化現象も薄らぎ、全身の機能が回復し、社会復帰をさえ考えるほどです。が、私たちの目標とするホームは日毎に生き生きと生活する所であり、生存するだけであってはいけないと思います。

管 理 組 織

 園 長 鈴 木 生 二  事 務  1
 寮 母  1       看護婦  3
 調 理  2       嘱託医  2

経営事業種目

 生活保護法による施設

定   員

 30名 但し内約20名は慢性疾患を持つ病弱者
 (脳溢血等による後遺症で歩行困難、失禁者等)

建物の坪数

 建  坪  157 坪 (ブロック造平屋建日本瓦葺)

敷 地 面 積

 敷  地  2,406 坪

入園の条件

 生活保護法の生活扶助を受けている者で、年齢概ね60才を超え独立して日常生活を営むことができない者。

日   課

        病弱者      健康者
 起  床  6:30       7:00
 朝  食  7:45(7:00)  7:30(7:30)
 礼  拝              8:30
 健康の時間           9:00~11:30
 昼  食  11:30(11:00) 11:45(11:30)
 静  養           11:00~15:00
 入  浴  14:00~15:00(月・水・金)
 夕  食  16:30      16:45
 消  燈 20:00       21:00
 生 活 指 導
 入園者又は入園後に於いては、毎月1回又は入園者の求めに応じ、随時身上について面接相談に応じます。

作   業

 原則として作業は課さないが、入園者の希望により、かつ施設長が入園者の健康保持等生活指導上の見地から、適当と認めた場合は入園者の身体的条件に応じ、簡易的な作業に従事させることがあります。

処 遇 状 況

 特に介護を要する病弱者をいたしますので、看護婦を3名、嘱託医2名を従事させ医療陣容を固め、姉妹関係と聖霊病院と緊密な連携な連絡をとりつつ保健衛生には特別考慮いたします。

Mutters Haus Journal第5号(2019.10.1) 

社会福祉法人十字の園 資料館 パネル

歴史を記したパネルの説明(3)

2000年(平成12)
  4月 介護保険法施行。介護保険による事業開始。
  4月 伊豆高原十字の園デイサービスセンター竣工。
  10月 ケアハウス・御殿場アドナイ館(定員30名)竣工。施設長上野貢一就任。
2002年(平成14)4月 松崎十字の園(定員50名)開園(併設身障療護20名)。施設長三條洋二就任。
2003年(平成15)4月 介護保険制度改訂。支援費制度施行(障がい福祉)。
2004年(平成16)5月 浜松ディアコニッセ母の家50周年記念びデイサービスのんき開所式
2005年(平成17)4月 伊東市立養護老人ホーム(定員50名)受託経営開始。
  11月 御殿場十字の園「介護タクシー」事業開始。
2006年(平成18)4月 御殿場十字の園及び伊豆高原十字の園にて地域包括支援センター開始。
2008年(平成20)4月 浜松十字の園地域密着型小規模多機能事業開始。民間デイサービス「根洗荘」運営開始。
2009年(平成21)4月 介護ケアハウス第2アドナイ館(定員20名)。開設。施設長平井章就任。
2011年(平成23)6月 伊豆高原十字の園全面移転による全室個室ユニット型(定員90名、短期10名)
  12月 ディアコニッセ 一二三姉妹召天。
2014年(平成26)2月 リハビリ特化型「ぷらすワン」。
  4月 認知症対応型グループホーム「笑みの里」。
2018年(平成30)4月 社会福祉法改訂。(理事会・評議員会・監事・会計監査人:組織改変)。
  10月 ディアコニッセ 光子姉妹召天。
2019年(平成31)3月 平井章理事長辞任。
  浜松ディアコニッセ母の家・十字の園歴史資料館開設。館長平井章。
  4月 鈴木淳司5代目理事長就任。

カイザースヴェルトに所属するディアコニッセ母の家の基本規約 No.4

第五章 母の家相互の関係
一六.母の家は、互いに執政しあう。母の家は、訪問、会議、出版物の交換及び相互扶助を通じて、その共同体を育成する。
十七.ある母の家が、ほかの母の家の外勤務地を引き継ぐ場合は、ほかの母の家所属の姉妹を受け入れる時と同様に、あらかじめ相互の了解を前提とする。
十八.総会は、その議長によって指導される。議長には次の者が届する。すなわちドイツ・ディアコニッセ母の家カイザースヴェルト連合の幹部、及び総会に代表を送る各州から、各州の母の家から派遣された一人の総務と一人の修道女長。議長は、向う六年間の統理者を選ぶ。議長は総会を対外的に代表し、会議を準備し、共通事項を処理す、総会に所属する各母の家に勧告と援助を行う。
十九.カイザースヴェルト総会に所属する母の家は、その相互の結合によって、世界教会会議のなかの婦人奉仕の代表としての《ディアコニッセ》に加わる。   (おわり)

上皇后美智子様からのメッセージ(小羊学園創立者山浦俊治氏の召天を知って)

「つのぶえ」拝見しました。
昨年お近くのホスピスを訪れましたとき
以前小羊学園学園に伺ったことを懐かしく思い出しておりました。
そのときいただいたシールが大層可愛く、今も手元に置いております。
青い色地に真白な小羊が描かれており、小羊学園と書いてあります。
永い年月にわたるお仕事を想いつつ、
山浦夫人はじめ、ご関係の皆さまに心よりお悔み申し上げます。
平成7年4月28日 午後4時45分 宮内庁 大谷茂宮務課長より電話にて

浜松ディアコニッセ母の家・社会福祉法人 十 字 の 園  歴史探訪 No.5

「十字の園開園の辞」   理事長 鈴木生二
 数年前のことである。保養園30年の歴史の創造者である同志(貧しい結核患者のために文字通り裸で働き通してきた人たち)がようやく停年に達し始めた。無一物でこの人たちを野垂れ死にさせては申し訳ない、このままにしておいてはそうなる、と我々若いものは考えた。言って見ればこれが老人ホームの芽生えであろう。たまたまディアコニッセのハニ姉妹が身寄りのない老人を助けることを神からの命としてきて、資金を得るため故国ドイツに帰っていった。3ヶ月の休暇帰国は不眠不休の募金行脚であった。思いもかけぬ多額の献金が予約された。いよいよこれは神の命であると、深い恐れを持ってハニ姉妹を再び迎えたのは1959年5月、老人ホームの建設の準備を始め始められたのはこの頃である。
 そしてその責任者としてこの私に指名があった。しかし、私はこのことの決断のためにいかに多くの逡巡と祈りの時を要したことか。時至って引き受けることに決意し、一昨年11月よりこれに専従した。幸いに富士建築の協力を得、ハニ姉妹と図面を引くこと30数枚に及ぶと言うようなこともあって出来上がったのがこの建物である。昨年末、本年1月と関係各庁の認可を受け、いよいよ仕事が始められた。週余にして十数名の御老人を迎えた。大変な仕事であると初めて知り、同時に、やってよかった、ほんとうによかったと思うに至り、生涯をかけてこの仕事に挺身することのできる自分を幸福者だとしみじみ思っている。

『だれが特別養護老人ホームを創設したのか』 加藤 仁
           介護福祉の月刊誌「おはよう21」より
 加藤仁氏は聖隷や十字の園を取材をしてこの記事を書きました。連載途中で急逝され5回で終わりました。そこからの引用です。
 特別養護老人ホームの原型が、日本で最初に姿を現したのは、昭和三十六年一月である。ただし、当時はまだ老人福祉法が制定されておらず、特別養護老人ホームという名称もなく、生活保護法にもとづく「保護施設」とされた。
 ハニは、キリスト者にして教育家の羽仁もと子(1873~1952)にあやかり、自分の名を日本語で「羽仁」と表記するのをよろこんでいた。
ハニは西村ミサに語った。「長谷川先生は仕事を大きくしていくのが上手だから、だんだんに仕事が大きくなると、その心がなくなります。そのときが、きっときます」。
 つづいて、ハニは西村に言う。「長谷川先生じゃなく、べつのひとに理事長になってもらって、べつの法人でやりましょう」。ハニは「聖隷」の職員が言えないようなことを、はっきりと言った。その決意には、ハニのひたむきさと聡明さが込められていた。
 計画されたのは30床のホームであり、当初の見積りでは、建設費に備品などをくわえて「516万円」で建てられることになっていた。ただし、そこに土地代はふくまれていない。計画を早期に実現させるには「聖隷」の敷地を譲りうけるのが手っとりばやい。
 ハニは当時の「聖隷」のあり方に、全面的には賛成できないという考えであり、鈴木生二は「長谷川さんに対してもね、多少の……。長谷川さんも当時は政治のほうにぐっと力が入っていたからね」と語っている。(『十字の園創立三十年記念誌』)。ハニと同意見の鈴木は覚悟を決め、長谷川保に新施設を開設するにあたって「別法人にしたい」「土地を譲っていただきたい」と告げた。長谷川保は、その申し出をうけいれた。鈴木によると「あのころ長谷川さんは、政治のほうで頭が一杯」であり、新施設にまで頭がまわらず、鈴木たちにまかせるのがいいと思ったようである。

長谷川力(聖隷福祉事業団・前理事長)は当時を述懐しながら言う。
 「ハニさんは熱心でした。そこには、なにごともきっちりしないと気がすまないドイツ人らしい発想が込められていました。病棟の南側の廊下には、老人たちが日向ぼっこをするサンルームを設け、自分たち職員の仕事場は北側においた。一部の部屋には和室も備えた。利用者本位という考えに徹していましたね。開園してからは、老人たちの身長を測ってベッドや腰かけの改良をしたり、ポータブルトイレを考案したりしました」
特別養護老人ホームの原型が、日本で最初に姿を現したのは、昭和三十六年一月である。ただし、当時はまだ老人福祉法が制定されておらず、特別養護老人ホームという名称もなく、生活保護法にもとづく「保護施設」とされた。
(つづく)

Mutters Haus Journal第4号(2019.9.1) 

社会福祉法人十字の園 資料館 パネル

歴史を記したパネルの説明(2)

1971年(昭和46)4月御殿場十字の園(定50名)開園。
     8月明仁皇太子ご夫妻 御殿場十字の園訪問。
1972年(昭和47)7月 明仁皇太子ご夫妻浜松十字の園訪問。
1974年(昭和49)7月 浜松十字の園増築工事(定員120名)。
     8月御殿場十字の園増築工事(定員100名)。
1976年(昭和51)2月浜松十字の園「入浴サービス事業(無料)」開始。
1978年(昭和53)4月 御殿場短期保護事業開始。
1981年(昭和56)4月 伊豆高原十字の園開園。園長鈴木生二就任。
    御殿場園長森本節夫。
1986年(昭和61) 林冨美子朝日新聞社会福祉賞
  4月 御殿場「リフレッシュ事業(県単)」開始。
  5月 「御殿場市高齢者介護ホーム」開始。
1988年(昭和63)5月 鈴木生二理事長辞任。
  8月 綿鍋義典が2代目理事長に就任。
  9月 初代理事長鈴木生二召天。
1989年(平成元) 御殿場十字の園「痴呆(認知)性老人生活指導ホーム」開始。
1991年(平成3)4月 伊豆高原十字の園「入浴サービス事業」、「ホームヘルプ事業」開始。
1993年(平成5)4月 ケアハウス・アドナイ館(定員50名)開館。施設長に平井章就任。
1994年(平成6)4月 長谷川保召天。
1996年(平成8)4月 綿鍋義典理事長辞任。森本節夫が3代目理事長就任。
  8月 社会福祉法人十字の園評議員会設置。
  10月 ハニ・ウォルフ姉妹召天。
1997年(平成9)4月 浜松十字の園増築工事完成。ショートステイ20床、デイサービスセンター、ヘルパーステーション開始。
1999年(平成11)4月 浜松がユニットケア開始。
  9月 森本節夫理事長辞任。平井章理事長就任。
  10月 御殿場十字の園全面改築工事竣工。総合福祉施設開業。身障デイサービス、老人デイサービスE型開始。

カイザースヴェルトに所属するディアコニッセ母の家の基本規約 No.3

第三章 母の家の管理
十一.すべての母の家は、総幹部家事管理部及び姉妹代表部を有する。
十二.すべての母の家は、総幹部家事管理部及び姉妹代表部を有する。
イ.総幹部は通例、統理者、総務修道女長、更に少なくとも他の一名のディアコニッセと、母の家の目的を推進させようと志向する男女とからなる。総幹部は全活動に対する責任を取り、母の家の管理に直接干渉することなく、対外的にこれをこれを代表する。
ロ.家事管理部は、総務と修道女長とからなる。総務は牧師であり、修道女長はディアコニッセでなければならない。家事管理部は、母の家を直接管理し、総幹部に対して、その活動の責任を有する。家事管理部は、他の姉妹及び協力者の参加をまって、家事協議会を構成することができる。
ハ.姉妹の団体は、姉妹代表部(姉妹幹事会)を通して、母の家の全活動の形成に参与する。
第四章  ディアコニッセの派遣
十三.母の家の幹部は、姉妹達をディアコニッセの任務を遂行するために派遣する。その際、幹部は奉仕の必要性に応じて、姉妹達の才能と当然な志望とを熟慮して決定する。
十四.外勤務地における姉妹達の奉仕については、母の家が、その代表者との間には、いかなる労働法的関係もない。姉妹達は母の家の規約にもとづき、外勤務地の代表の服務規定にしたがって働く。次の要目については、特に母の家の規約に従う。すなわち姉妹達の宿泊、労働時間、休息時間、共同生活の形成、看護をゆだねられた人に対する宗教的奉仕、礼拝の挙行、男子患者の看護に際して不当な要求に対する保護。母の家は、その全使命に鑑み、ある姉妹を他の姉妹と交替させる権利を保有している。母の家は、姉妹の転任に先立って、できる限り、勤務地の代表者と了承しあうこと。指導者の任に当たる姉妹は、母の家の委任を受けた代表者である。

浜松ディアコニッセ母の家・社会福祉法人 十 字 の 園  歴史探訪 No.4
一番困っている方の老人ホームに(鈴木フミ記)

施設を作る資金のために、ハニ姉妹は一時ドイツに帰り、ドイツのムッターハウス(母の家)の方たちや、教会、団体にいろいろ訴えて募金をしてきました。その当時で600万円ぐらい集まりました。では具体的にどうするかということになり、長谷川保さんにも相談しました。そして、今の十字の園のこの一角を、まだ聖隷の土地だったのを無償でいただくことの交渉が理事会でも了承されて、この土地で作ろうということになりました。当時は老人福祉法はできていませんので、いわゆる生活保護法を対象として作ることになりました。しかし、施設はハニ姉妹の考えのもとで、ねたきりとか身体の弱い人をお世話することを中心にしてやろうというものでした。

いよいよ老人ホームへの第一歩が

1959(昭和34)年9月、老人ホームの創設準備責任者に鈴木生二が推薦され、いよいよ老人ホームへの第一歩が踏み出されました。続いて10月、社会福祉法人聖隷保養園は老人ホーム建設の趣旨に賛同し、建設用地を無償譲渡することを決定します。同時に鈴木生二を現職の聖隷厚生園次長のまま、設立準備に専従することも決めました。
1960(昭和35)年に入ると、鈴木フミも長年にわたる聖隷病院での看護婦としての職を退き、老人ホーム開設に力を注ぎます。10月には綿鍋義典が十字の園に加わることも決定します。

準備(布団・シーツ・おむつ)(鈴木フミ記)

老人ホームを始めるに当たっていろいろな準備がありました。当時は、今ではとても考えられないのですが、物がないときでした。でも、その時に、ハニ姉妹の建設の準備の仕方が、実に、私はなるほどという感じを持ちました。それは、ハニ姉妹という方は、非常に個人、一人ひとりをとても大事にされ、日本のお年寄りをとっても愛されていました。布団までは揃えられなかったので、入る方に用意して持ってきていただこうということでした。しかし、シーツにしてもベッドでしたから、そのために大きいシーツが必要ですし、ねたきりの方には、お漏らしなんかもありますから、それに対する防水用のシーツも必要でした。そんなことから、始まる前には私たちは一日中ミシンを踏みまして、シーツから枕カバー、包布とか、またおむつを作りました。いろいろな準備をして、昭和36年1月21日にお年寄りをお迎えしたのです。

十字の園老人ホームの建築工事が始まる

いよいよ工事が始まりました。結核で聖隷保養園に入院、療養し、回復した大橋徳三も、重要な役割を果たしました。ブルドーザーの音を響かせ、トロッコを走らせ工事は進みます。礼拝が終わったあと、聖隷の職員もみんなで工事を手伝いました。大谷川には十字の大橋が架かります。その名は大橋徳三にちなんで付けられました。徐々に建物が立ち上がってきます。

「十字の大橋」の由来(綿鍋義典氏記)

大橋徳三さんは昔の聖隷保養園で長いこと営繕部の主任をしていた。ベテルホームに収容された重症の肺結核患者で、大喀血を反復し、そのたびに痰コップでは間に合わずホーロー鍋で受けたと記されている。もともと県庁の土木の技術吏員だった大橋さんは、病気回復後の体をいたわりながら、営繕の監督のような仕事を受け持ち、病棟やそのほか保養園内あちこちの修理などの仕事を切り回していた。
教会の礼拝堂の設計・監督も大橋さんだ。建設委員長の鈴木生二さんと組んでの仕事だった。教会の前から十字の園に至る道も大橋さんが設計・監督して切り開いた道で、それまでは原野だった。やはり十字の園を作るための、鈴木生二さんとの共同の仕事で、ツルハシとスコップというすべて人力の時代、掘った土はレールを敷いてトロッコで運び、盛り土に使った。難関は大谷川に橋を架けることで、土木技師としての大橋さんの面目発揮の場面だったのではないか。橋台・橋脚は一応コンクリート、橋桁には丸太を渡し、その上に角材を敷き詰めて土をかぶせた。それまでは、当時の准看養成所の生徒も、ディアコニッセの姉妹たちも、丸太に板を打ち付けた巾三尺ほどの仮り橋を唯一の交通路としていたのだから、この橋が出来るのを皆さん待ち望んだ。
「母の家」の初期の建物も(今はもう無いが)、当時は聖隷の所有であった朝霧荘から、物置小屋や鶏小屋を解体、運んで来て、それに新材を買い足しての新旧材料取り混ぜ建築だった。こういう工事こそ大橋さんの独壇場である。文字どおり「母の家」が竣工して、姉妹たちの喜びはいかばかりだったろうか。ハニ姉妹は感謝の祈りを捧げ、その建物のひとつを「大橋記念館」と名付けた。おなじく半コンクリート・半木造のその小さな橋に「十字の大橋」と命名されたのである。

社会福祉法人十字の園認可

1960(昭和35)年12月28日には、法人の認可がおり、翌1961(昭和36)年1月20日、生活保護法による保護施設としての、十字の園老人ホームがついに開設しました。最初の1年間はすべての職員の安い給料と、母の家の姉妹たちの無報酬に近い奉仕により支えられました。

Mutters Haus Journal第3号(2019.8.1) 

社会福祉法人十字の園 資料館 パネル

歴史を記したパネルの説明(1)

1934年(昭和9) 「イエスの友会」全国大会にて、ディアコニッセの働きを紹介する「もの言う手」上映。
1945年(昭和20) 鈴木生二、(財)聖隷保養農園に勤務開始。
1946年(昭和21)
西ドイツブレーメン教区長P.G.メラー牧師来日。賀川豊彦、長谷川保に会い、日本委員会がディアコニッセの派遣を準備。
1953年(昭和28)
ドイツより「ディアコニッセ」5名と婦人宣教師来日。
1954年(昭和29)
浜松ディアコニッセ母の家設立。鈴木生二、創設された聖隷更生園次長)就任。
6月市川一二三、山浦ミツディアコニッセ立志式。
1959年(昭和34)
1月~4月ハニ姉妹がドイツのキリスト教徒、母の家を訪問。約600万円の資金を作って来られた。
1960年(昭和35) 5月同資金により十字の園老人ホーム建設開始。
11月聖隷保養農園(現聖隷福祉事業団)より敷地2406坪の無償譲渡を受ける。
12月28日 社会福祉法人設立認可。
初代理事長に鈴木生二就任。
1961年(昭和36) 1月20日社会福祉法人十字の園設立登記完了。生活保護法の保護施設・十字の園老人ホームの認可。定員30名(職員7名)。施設長に鈴木生二就任。
1963年(昭和38) 3月 十字の園老人ホーム増築落成。定員50名。
8月 老人福祉法施行
1964年(昭和39) 2月 十字の園老人ホーム増築落成、定員100名。老人福祉法による特別養護老人ホームとして認可。
1966年(昭和41) 3月 ハニ・ウォルフ帰国。県知事表彰、厚生労働省感謝状。(資料館に展示)
5月 知的障害児施設「小羊学園」開園。

カイザースヴェルトに所属するディアコニッセ母の家の基本規約 No.2

第二章 ディアコニッセ母の家
4.母の家は、姉妹達の故郷である。すなわち会合と教育、修練と確証、派遣と指導、後援と庇護の場所である。姉妹の団体は、信仰と奉仕の生活共同体である。姉妹達は、執政と奉仕と共同責任のもとに、共同の仕事を遂行する。
5.姉妹として迎え入れられるのは、誠実にキリスト教徒たらんとする新教の婦人である。姉妹達は、よい世評と必要な心身上の書状経緯を備えていなければならない。姉妹達は18才以下であってはならない。
6.姉妹達は数年の修練期間後に、奉仕運動とその使命に信任される。姉妹達は自分の奉仕を神から与えられた生涯の使命として承認し、その努のために独身生活をする。(マタイ伝19・12、コリント前書7章)。姉妹達は聖別を以ってディアコニッセという教会の職務に任ぜられる。カイザースヴェルト総会は、十字架にかかり、復活したまいし教会の主なるイエス・キリストによって、献身的愛の職場に召されたことを自覚する姉妹達とともに、幾多のディアコニッセ母の家からなる連合である。総会は次の規約によって活動する。
7.姉妹達は、母の家との間にはいかなる労働法的関係もない。姉妹達は、奉仕によって母の家にもたらした収益のうちから、健康時及び疾病時に、休養悪露日老後に必要な一切のものを、母の家の規約によって受ける。姉妹達は奉仕に従事するとき、個人的な贈与は一切受けない。
8.姉妹達は、母の家の制服を常時着用する。例外については母の家の幹部の同意を必要とする。姉妹が母の家より脱退する時は、制服を着用する権利を失う。
9.姉妹の両親又は養父母が緊急の看護を必要とするときは、母の家の可能な限り、適当な期間を、子としての義務を遂行する為に、休暇を与える。兄弟及び他の親族に対しては、母の家はこの義務を認めない。
10.もし姉妹が脱退問題に当面した場合には、母の家の幹部の牧会的な忠告を聞くことが望ましい。聖別された姉妹であっても、生活規律や召命の義務遂行を著しく絶えず損なうときは、母の家は彼女を除隊させる権利がある。            つづく
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Mutters Haus
}; 開館:月~土曜日 午前10時~午後4時

浜松ディアコニッセ母の家・社会福祉法人 十 字 の 園  歴史探訪 No.3
ハニ姉妹は日本語で多くの手紙を書いています。

『ハニ姉妹の山小屋からの手紙』
愛する姉妹たち ご機嫌いかがでしょうか。
「怖いことあったらかならず書きます」と約束をしていましたから、わたくしは元気であることをお知らせいたします。この休暇は本当にいることです。こちらへまいりましてから、はっきり分かりました。毎日たくさん夢を見ます。台湾であったことも出てきます。やっぱり知らないうちに、まだ片付いていませんでした。いまはどこのためにでもお祈りできます。心たいへん静かになりました。
12日、高い山を三時間半歩きました。渋川へも歩いて行きます帰りも、。足も跳ねません。きょうは少し蒸し蒸し暑いので、渋川への道は少し難しかったでしす。
夜、一度、怖いことがあったから電気を注文しました。一二三姉妹、どうぞ生二さんに電気のことを知らせてください。
昨日13日は私の大事なことの記念日でした。6年前は祝福式の朝でした。その時の読まれた聖書は申命記でした。申命記8章18節『あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたに力を与えられるからである』。もう一度この言葉は大変な慰めになりました。いつまでも、いつでも、6年間愛なる力をいただきましたから、これからもどんなことに対しても、どんなことについても、自分の弱い罪の心ためにも力を得るでしょう。傲慢にならないためにいい言葉ですね。神さまが力をくださいます。自分の力でなく、主イエス・キリストはわたくしたちを救いましたから望みがあります。
もう一つ記念がありました。同じ13日午後、6年前、日本へ行くために別れの式がありました。テサロニケの第一の手紙5章23、24節『どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。』のみ言葉いただきました。この23と24節の『下さるであろう』という言葉で、このどのことに対してでも心配なくなりました。けれども、自分の怖さに対しても眠ってしまいました。ですから、皆さん目を覚ましていましょう。もちろん、昨日、大変静かな日曜日の礼拝の聖書と讃美歌といい説教も、大変いい本も読みました。けれども、浜松の母の家のことを考える時間もありました。わたくしたちは本当に主イエス・キリストの姉妹たちですから、どのようなところでお分かりになりますか?もしかすると悪いことあったら互いに赦すことをできましたら主イエス・キリストの姉妹たちでしょう。
わたくしたちは良いのではありません、良い人、イエス・キリストだけでした。ほかの人と比べますと、ちっとも変わりありません。けれども、一つかたく守りましょう。覚えましょう。主イエス・キリストが憐れんでいらっしゃる方ですから何でも赦して下さいます。そのいただいた赦すことを感謝しながら、兄弟姉妹にあげましょう。
今は、大雨のあとで大きいカラスが、おばあさんの畑で歩いています。けれども、こちらへきません。まだ石をかんで食べてはいけませんから、食事の時間を決めております。コーヒーがあっても全然飲みません。日曜日の午後だけ紅茶も一日一回だけです。朝のパン食のとき6時とあと12時ご飯です。少し長いと思いますけれども、それで大変元気になりました。午後も何も飲みません。お水だけです。夜のご飯を大変おいしくいただきます。お腹が空きますから。
今はあなたがたのために神さまに大変感謝します。養老院のために大変祈っています。わたくしはどうゆうふうになろうか、どうか全然見ることできません。けれども神さまご存知であること知っています。何でも神さまの手に委ねましょう。神さま養老院の2名いるのお金くださいましたから、道も場所も働く方も形をくださるであろう。一年前こちらいました時を思い出しました。皆さん謙遜なるために執り成しをください。浜松母の家は大好きです。
感謝、感謝、感謝。  昭和34年9月14日
(つづく)

渋川の山小屋のこと(新しい事実)

①渋川の山小屋は通称「みぎわのこや」です。
②渋川の土地和提供してくれたのは、聖隷の鈴木捷司さんだと鈴木唯男さんが言ったが、年齢からは捷司さんの親戚筋だったようだ。
③小屋の設計はのちに浜松市長になった栗原勝氏で、遠州教会の信徒でした。
④ハニ姉妹は、渋川の山小屋で夏の休暇をとっていました。そのときの食料や物資は、遠州鉄道バスの運転手にお願いして、三方原の辺のバス停で積み込み、渋川のバス停でまで届けたというエピソードもあります。

Mutters Haus Journal第2号(2019.7.1) 

社会福祉法人十字の園 資料館 パネル

夕暮になっても光がある(ゼカリヤ書14:7)
その日には、寒さも霜もない。そこには長い連続した日がある(主はこれを知られる)。これには昼もなく、夜もない。夕暮になっても、光があるからである。
(解説)
 ここに天国が実現した。私たちは、いつの日にか天に召されたところの天国の情景があります。「御顔を仰ぎ見る」。「彼らの額には、神の名が記されている」。この「神の名」というのは、キリストが私たちに与えて下さった救いです。そして、「もはや、夜はなく」。ですから、暗さがないのです。
ハニ姉妹 定礎の祈り(1960年5月5日)
主イエス・キリストよ、あなたの御命令でこの家を建てますから、
あなたがこの家の基礎になってください。

十字の園の名称の由来
 主イエス・キリストがご自身の十字架によって、神の国へ入る道を開いてくださいましたから、私たちが入ることのできる国は十字架の下だけです。そこには救いの希望があります。私たちの心は感謝と歓びに溢れています。

カイザースヴェルトに所属するディアコニッセ母の家の基本規約 No.1

 カイザースヴェルト総会は、十字架にかかり、復活したまいし教会の主なるイエス・キリストによって、献身的愛の職場に召されたことを自覚する姉妹達とともに、幾多のディアコニッセ母の家からなる連合である。総会は次の規約によって活動する。
第一章 母の家奉仕運動(ディアコニー)と教会
1.《努(ディアコニー)は種々あるが、主は同じである》(コリント前12:5)。
 教会におけるすべての努めは奉仕運動である。この包括的な奉仕運動のなかで、狭義の意味の奉仕活動は心身の救済を必要とするすべての人々への奉仕である。この団体は、キリストが兄弟と呼びたもうかかる人々への奉仕において、神を賛美し、栄光のうちに再び来り、あらゆる困者を終わらせたもう主を待望しながら、神の憐憫を証しようとする。
 奉仕運動は、イエス・キリストの教会の本質と生命の発露である。奉仕運動は、教会史の過程において、幾多の形態で形成されて来た。カイザースヴェルト規約による母の家奉仕運動は、19世紀テオドール・フリートナーが設立した婦人奉仕運動の形態である。カイザースヴェルト総会に連合する母の家は、今日もなお、この形態において、教会の主の賜物と使命とを見出す。
2.母の家は、それぞれの教会に属すけれども、法的及び団体としての自主性を失わない。
第二章 ディアコニッセ母の家
3.ディアコニッセは主イエス・キリストの奉仕者である、とともに主のために、あらゆる種類の助けを要する人々に対する奉仕者である。ディアコニッセ相互間の奉仕者である。ディアコニッセは、神に従い、主イエス・キリストの愛を感謝し、聖霊の助力を信頼しながら、その務を行う。つづく

歴史探訪 No.2

ディアコニッセたちの活動
 浜松へやって来たディアコニッセたちは、それぞれ病棟に入って仕事を始めます。長い祈りと決断の準備のときを終えて、遠い未知の国日本に着いた彼女たちにとっては、ここで備えられた仕事は何であろうかという不安と期待とがあり、一方では日本語の習得も急がなくてはなりませんでした。ハニ姉妹だけは、ドイツで日本語を学び始めていたということもあって、理解の早さ、表現力の豊かさ、一回やるごとに上達するその早さには、目覚ましいものがありました。また、一人でどこへでも入って行くことができ、どこででも優れた能力を発揮することができました。病棟看護では優れた観察力により、聖隷の優れた看護方法を習得し、手術室看護婦としても優れた技術を持っており、医師からは高い信頼を得ました。1954年4月、准看護婦養成所教務主任が、病気のため1年休職することになると、その代行を勤めるまでになっていました。

牧師館がディアコニッセ母の家に
 やがて牧師館が4人のディアコニッセの住居となりました。後に日本人ディアコニッセ第1号となる山浦ミツ、市川一二三の2人の日本人見習いシュベスターとの、共同生活が始まりました。ここに名実ともに母の家ができあがったのです。1954(昭和29)年10月29日のことでした。
奥三河の山小屋(みぎわの小屋)の夢
それから3年近い月日が流れた夏のことです。三方原とは山を隔てた、奥三河に近い渋川に、小さな小屋がありました。その小屋にハニ姉妹がいたときのことです。その夜、接近する台風に伴う大雨が、渋川を襲いました。小屋のそばそそり立つがけが崩れて落石があったので、一番大きな石がまともに小屋をめがけて落ちました。不思議にもそれは建物を避けて床下に滑り込み、ハニ姉妹の命は助かりました。
ハニ姉妹はじっと祈り続けました。そのときある光景が彼女の脳裏に浮かび上がました。家族が働きに出たあとの農村の家では、おばあさんやおじいさんが一人で寝ているのです。お年寄りは一人で寂しく、話しをする相手もいません。ハニ姉妹は思いました。
私たちの老人ホームは、一人で寝ている老人のためこそなければならない。神様はきっと、私にそのことを命じておられるのだと。

祖国ドイツの教会や母の家から献金
1959(昭和34)年、ハニ姉妹は祖国ドイツに、老人ホーム建設のための資金を求める旅に出ました。それは船で2カ月もかかる旅でした。6年目にして初めての帰国でもありました。彼女は日本の風物、人情、生活を紹介する芝居をつくって、ドイツの母の家で演じて回りました。芝居の道具や衣装の入った大きな荷物を担いで、母の家から母の家へと、興行の旅を続けたのです。4カ月のあいだにドイツの母の家のディアコニッセ、諸教会の信徒たちから献金600万円が、新しい老人ホーム建設のためにささげられました。

神様の力の大きさでやりたい
 日本に帰ってきたハニ姉妹は、「日本人の仕事は日本人でやるべきです。私たちドイツ人は、ただそれを手伝うことだけです」と述べ、献金をすべて建設費用にと差し出しました。ハニ姉妹は、新しく作る老人ホームは聖隷の法人ではなく、別の法人を作ってやりたいと考えており、西村ミサに次のように話しました。「聖隷は大変大きな施設たくさんあります。長谷川先生もっとたくさんにするでしょう。長谷川先生の信仰の力大きいからです。長谷川先生いなくなったら、だんだん人間の力大きくなります。神様の力なしの、人間の力でするようになります。そのときまでもいつまでも、老人ホームは神様の力の大きさでやりたい。私たち働く人、みんなキリストの十字架のもとでだけ、一つになって働く団体にしたい。そのため別の法人にしたい。分かってくださいますか。いけませんか」と。この意を受けて、新しい老人ホームは別法人として発足することになります。

Mutters Haus Journal創刊号(2019.6) 

浜松ディアコニッセ母の家・十字の園 資料館 開館

 浜松ディアコニッセ母の家によって十字の園老人ホームが出来ました。まだ老人福祉法がない時です。昭和38年に老人福祉法が制定されるときに、十字の園をモデルに「特別養護老人ホーム」の基準等ができました。
 1960(昭和35)年12月28日に社会福祉法人十字の園の認可がおり、 1961(昭和36)年1月20日に十字の園老人ホームがスタートし、翌1月21日に4人の入園者を迎えました。2020(令和2)年度は、創設60年です。人間でいえば還暦です。
 世代が変わり、ややもすると一つひとつの歴史が忘れ去られて行ってしまいます。
 聖隷歴史資料館(聖隷学園5号館)には、聖隷グループの展示があり、十字の園の展示もあります。今回の資料館は、十字の園の4代目理事長が収集した資料、母の家に所蔵されていた資料などを展示しました。
 左の写真は、生活保護法時代の十字の園老人ホームの要覧(施設案内)です。十字の園の創設に関わったディアコニッセ、ハニ・ウォルフ姉妹が愛用していた日本語聖書(口語訳聖書)やハニ姉妹の直筆の日本語の手紙などもあります。

資料館の見どころ 案内

(その1)復活礼拝堂(母の家の南側)
 ディアコニッセの姉妹たちや十字の園職員たちが、毎週土曜日に礼拝していました。
 母の家とディアコニッセ、十字の園の写真や説明のパネルが展示されています。ディアコニッセの服装とドイツ風のクリスマスツリーを常時展示しています。
(その2)浜松ディアコニッセ母の家
 戦後、日本の復興のために来日したディアコニッセと日本人ディアコニッセの生活と教育の場として使われていました。現在は、デイサービス「のんき」の事業所として使っています。その北側、玄関から入った部屋に、浜松ディアコニッセ母の家と社会福祉法人十字の園のパネルの展示と資料や図書の展示をしています。
【Ⅰ】展示パネル
 ①十字の園の理念パネル …………… 1枚
 ②十字の園のあゆみパネル ………… 3枚
 ③十字の園に関わった人物パネル … 6枚
【Ⅱ】展示コーナー 中ブロック
 ①ハニ姉妹の日本語聖書、自筆の手紙、印鑑
 ②池田みち氏(入居者)のフィリピン里親資料
 ③十字の園、聖隷等の昔の機関誌
 ④母の家の日誌、会計簿
 ⑤4代目平井理事長 収集所蔵の資料
 ⑥VHS、DVD、スライド
【Ⅲ】展示コーナー 東ブロック
 ①購買部うちわ、20周年記念てぬぐい、看板
 ②十字の園パンフレット
 ③ドイツ風クリスマス飾り
 ④母の家所蔵のアルバム
 ⑤いろいろな写真、ディアコニッセ募集案内
 ⑥ストローム宣教師の本とポスター
【Ⅳ】展示コーナー 北ブロック
 ①ハニ姉妹来日時のボストンバッグ、かばん
 ②ディアコニッセの制服(作業服、礼服)
 ③帰国時のハニ姉妹への感謝状(厚生大臣)
 ④光子姉妹、一二三姉妹の看護婦免許証
 ⑤一二三姉妹の立志式の「祝福の詞」
 ⑥ディアコニッセ姉妹たちの海外の土産品

歴史探訪 No.1

 1934(昭和9)年9月、賀川豊彦の助言により、御殿場で開催された「イエスの友会」全国大会にて、長谷川保は、聖隷社の窮状を訴え、その結果、一坪献金運動が決議されました。この大会の中で「物言う手」が上映されました。この映画は、ドイツ・ベルリンのノアウエ聾盲唖院の、生まれながらにして聾盲唖(三重苦)のため、人間としての喜び得ることが出来ない人のために、聞くこと、話すこと、読むことの教育(訓練)の実践を映画にしたものです。全国から寄付が集まり、この資金により県から払い下げられた三方原の広大な土地を手に入れました。結核のための療養所は移転し、1936(昭和11)年に聖隷保養農園が設立します。十字の園の初代理事長の鈴木生二は、1945(昭和20)年、兄鈴木唯男がいる聖隷保養農園に務め始めました。
1945(昭和20)年、軍需産業都市・浜松の街は、徹底的な空襲や艦砲射撃によって焼野原になりました。終戦を迎えた時、野戦病院と化した聖隷保養農園で、長谷川保たちはキリスト教精神に基づいた祖国の復興を誓い合います。1946(昭和21)年、長谷川保は、戦後初の第22回衆議院選挙に立候補し見事当選を果たしました。国会議員として、生活保護法の制定に力を注ぐなど政治を通して、キリスト教精神を基に社会福祉政策の具現化を図っていきます。
 ブレーメン教区長、スイス、ドイツ、オーストリア、深夜伝道協議会議長であったP・G・メラー牧師が、同じ敗戦国である日本の社会状況を視察するために来日しました。賀川豊彦、長谷川保らに出会い、戦後復興のドイツよりはるかに遠い日本の現状を見ました。特に上野駅地下道に群がる戦争孤児たちに心を痛めました。「日本の教会は、どうしてこれに手を付けないのか」と疑念を表明し、「必要ならドイツのディアコニッセを派遣することができる」と提案しました。しかし日本のキリスト教団には、これを受け入れる用意がありませんでした。結局、長谷川保が引き受けることになりました。
 1953(昭和28)年11月15日午後4時、アトラス号に乗って、ドイツ・カイザースヴェルトより5人のディアコニッセと1人の婦人宣教師が横浜港に到着しました。ディアコニッセの団長はイルムルード・フォン・ハウグイッツ(1913年5月7日生)フランクフルト母の家、ヤンセン・フリーダー(1925年7月21日生)ブレーメン母の家、ヘルミネ・エルゼ・ペルミツ(生年不明)ドレスデン母の家、ドロテヤ・メンデ(1924年12月4日生)ヴェッセル・ブレーメン母の家、ハニ・ウォルフ(1914年5月5日生)ミュンスター母の家の5人と、宣教師の宣教団体ミッドナイト・ミッションから派遣されたエリザベート・ストローム(1922年・南ドイツ・ウルムの小さな村生)です。 当時の横浜港から浜松までの様子を8ミリで撮影した「ディアコニッセの来訪」のビデオで見る事ができます。
 長谷川保らの出迎えを受けた一行は、長谷川保の引率で、東京に行き、国会議事堂前で来日の記念の写真を撮りました。それから汽車に乗って浜松駅に到着しました。
 三方原に到着したディアコニッセたちは、大勢の人々の歓迎を受けました。一人一人名前を呼ばれて起立したのであるが、「最後のハニ・ウォルフが、床をけるように勇ましく立ち上がった姿が、今も鮮やかに思い出される」と、後に語ったのは、その後、彼女の日本語の教師となり、よき相談相手となった西村ミサです。

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