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機関紙投稿

ムッターハウスジャーナルMutters Haus Journal

Mutters Haus Journal第3号(2019.8.1) 

社会福祉法人十字の園 資料館 パネル

歴史を記したパネルの説明(1)

1934年(昭和9) 「イエスの友会」全国大会にて、ディアコニッセの働きを紹介する「もの言う手」上映。
1945年(昭和20) 鈴木生二、(財)聖隷保養農園に勤務開始。
1946年(昭和21)
西ドイツブレーメン教区長P.G.メラー牧師来日。賀川豊彦、長谷川保に会い、日本委員会がディアコニッセの派遣を準備。
1953年(昭和28)
ドイツより「ディアコニッセ」5名と婦人宣教師来日。
1954年(昭和29)
浜松ディアコニッセ母の家設立。鈴木生二、創設された聖隷更生園次長)就任。
6月市川一二三、山浦ミツディアコニッセ立志式。
1959年(昭和34)
1月~4月ハニ姉妹がドイツのキリスト教徒、母の家を訪問。約600万円の資金を作って来られた。
1960年(昭和35) 5月同資金により十字の園老人ホーム建設開始。
11月聖隷保養農園(現聖隷福祉事業団)より敷地2406坪の無償譲渡を受ける。
12月28日 社会福祉法人設立認可。
初代理事長に鈴木生二就任。
1961年(昭和36) 1月20日社会福祉法人十字の園設立登記完了。生活保護法の保護施設・十字の園老人ホームの認可。定員30名(職員7名)。施設長に鈴木生二就任。
1963年(昭和38) 3月 十字の園老人ホーム増築落成。定員50名。
8月 老人福祉法施行
1964年(昭和39) 2月 十字の園老人ホーム増築落成、定員100名。老人福祉法による特別養護老人ホームとして認可。
1966年(昭和41) 3月 ハニ・ウォルフ帰国。県知事表彰、厚生労働省感謝状。(資料館に展示)
5月 知的障害児施設「小羊学園」開園。

カイザースヴェルトに所属するディアコニッセ母の家の基本規約 No.2

第二章 ディアコニッセ母の家
4.母の家は、姉妹達の故郷である。すなわち会合と教育、修練と確証、派遣と指導、後援と庇護の場所である。姉妹の団体は、信仰と奉仕の生活共同体である。姉妹達は、執政と奉仕と共同責任のもとに、共同の仕事を遂行する。
5.姉妹として迎え入れられるのは、誠実にキリスト教徒たらんとする新教の婦人である。姉妹達は、よい世評と必要な心身上の書状経緯を備えていなければならない。姉妹達は18才以下であってはならない。
6.姉妹達は数年の修練期間後に、奉仕運動とその使命に信任される。姉妹達は自分の奉仕を神から与えられた生涯の使命として承認し、その努のために独身生活をする。(マタイ伝19・12、コリント前書7章)。姉妹達は聖別を以ってディアコニッセという教会の職務に任ぜられる。カイザースヴェルト総会は、十字架にかかり、復活したまいし教会の主なるイエス・キリストによって、献身的愛の職場に召されたことを自覚する姉妹達とともに、幾多のディアコニッセ母の家からなる連合である。総会は次の規約によって活動する。
7.姉妹達は、母の家との間にはいかなる労働法的関係もない。姉妹達は、奉仕によって母の家にもたらした収益のうちから、健康時及び疾病時に、休養悪露日老後に必要な一切のものを、母の家の規約によって受ける。姉妹達は奉仕に従事するとき、個人的な贈与は一切受けない。
8.姉妹達は、母の家の制服を常時着用する。例外については母の家の幹部の同意を必要とする。姉妹が母の家より脱退する時は、制服を着用する権利を失う。
9.姉妹の両親又は養父母が緊急の看護を必要とするときは、母の家の可能な限り、適当な期間を、子としての義務を遂行する為に、休暇を与える。兄弟及び他の親族に対しては、母の家はこの義務を認めない。
10.もし姉妹が脱退問題に当面した場合には、母の家の幹部の牧会的な忠告を聞くことが望ましい。聖別された姉妹であっても、生活規律や召命の義務遂行を著しく絶えず損なうときは、母の家は彼女を除隊させる権利がある。            つづく
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Mutters Haus
}; 開館:月~土曜日 午前10時~午後4時

浜松ディアコニッセ母の家・社会福祉法人 十 字 の 園 

歴史探訪 No.3
ハニ姉妹は日本語で多くの手紙を書いています。

『ハニ姉妹の山小屋からの手紙』
愛する姉妹たち ご機嫌いかがでしょうか。
「怖いことあったらかならず書きます」と約束をしていましたから、わたくしは元気であることをお知らせいたします。この休暇は本当にいることです。こちらへまいりましてから、はっきり分かりました。毎日たくさん夢を見ます。台湾であったことも出てきます。やっぱり知らないうちに、まだ片付いていませんでした。いまはどこのためにでもお祈りできます。心たいへん静かになりました。
12日、高い山を三時間半歩きました。渋川へも歩いて行きます帰りも、。足も跳ねません。きょうは少し蒸し蒸し暑いので、渋川への道は少し難しかったでしす。
夜、一度、怖いことがあったから電気を注文しました。一二三姉妹、どうぞ生二さんに電気のことを知らせてください。
昨日13日は私の大事なことの記念日でした。6年前は祝福式の朝でした。その時の読まれた聖書は申命記でした。申命記8章18節『あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたに力を与えられるからである』。もう一度この言葉は大変な慰めになりました。いつまでも、いつでも、6年間愛なる力をいただきましたから、これからもどんなことに対しても、どんなことについても、自分の弱い罪の心ためにも力を得るでしょう。傲慢にならないためにいい言葉ですね。神さまが力をくださいます。自分の力でなく、主イエス・キリストはわたくしたちを救いましたから望みがあります。
もう一つ記念がありました。同じ13日午後、6年前、日本へ行くために別れの式がありました。テサロニケの第一の手紙5章23、24節『どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。』のみ言葉いただきました。この23と24節の『下さるであろう』という言葉で、このどのことに対してでも心配なくなりました。けれども、自分の怖さに対しても眠ってしまいました。ですから、皆さん目を覚ましていましょう。もちろん、昨日、大変静かな日曜日の礼拝の聖書と讃美歌といい説教も、大変いい本も読みました。けれども、浜松の母の家のことを考える時間もありました。わたくしたちは本当に主イエス・キリストの姉妹たちですから、どのようなところでお分かりになりますか?もしかすると悪いことあったら互いに赦すことをできましたら主イエス・キリストの姉妹たちでしょう。
わたくしたちは良いのではありません、良い人、イエス・キリストだけでした。ほかの人と比べますと、ちっとも変わりありません。けれども、一つかたく守りましょう。覚えましょう。主イエス・キリストが憐れんでいらっしゃる方ですから何でも赦して下さいます。そのいただいた赦すことを感謝しながら、兄弟姉妹にあげましょう。
今は、大雨のあとで大きいカラスが、おばあさんの畑で歩いています。けれども、こちらへきません。まだ石をかんで食べてはいけませんから、食事の時間を決めております。コーヒーがあっても全然飲みません。日曜日の午後だけ紅茶も一日一回だけです。朝のパン食のとき6時とあと12時ご飯です。少し長いと思いますけれども、それで大変元気になりました。午後も何も飲みません。お水だけです。夜のご飯を大変おいしくいただきます。お腹が空きますから。
今はあなたがたのために神さまに大変感謝します。養老院のために大変祈っています。わたくしはどうゆうふうになろうか、どうか全然見ることできません。けれども神さまご存知であること知っています。何でも神さまの手に委ねましょう。神さま養老院の2名いるのお金くださいましたから、道も場所も働く方も形をくださるであろう。一年前こちらいました時を思い出しました。皆さん謙遜なるために執り成しをください。浜松母の家は大好きです。
感謝、感謝、感謝。  昭和34年9月14日
(つづく)

渋川の山小屋のこと(新しい事実)

①渋川の山小屋は通称「みぎわのこや」です。
②渋川の土地和提供してくれたのは、聖隷の鈴木捷司さんだと鈴木唯男さんが言ったが、年齢からは捷司さんの親戚筋だったようだ。
③小屋の設計はのちに浜松市長になった栗原勝氏で、遠州教会の信徒でした。
④ハニ姉妹は、渋川の山小屋で夏の休暇をとっていました。そのときの食料や物資は、遠州鉄道バスの運転手にお願いして、三方原の辺のバス停で積み込み、渋川のバス停でまで届けたというエピソードもあります。

Mutters Haus Journal第2号(2019.7.1) 

社会福祉法人十字の園 資料館 パネル

夕暮になっても光がある(ゼカリヤ書14:7)
その日には、寒さも霜もない。そこには長い連続した日がある(主はこれを知られる)。これには昼もなく、夜もない。夕暮になっても、光があるからである。
(解説)
 ここに天国が実現した。私たちは、いつの日にか天に召されたところの天国の情景があります。「御顔を仰ぎ見る」。「彼らの額には、神の名が記されている」。この「神の名」というのは、キリストが私たちに与えて下さった救いです。そして、「もはや、夜はなく」。ですから、暗さがないのです。
ハニ姉妹 定礎の祈り(1960年5月5日)
主イエス・キリストよ、あなたの御命令でこの家を建てますから、
あなたがこの家の基礎になってください。

十字の園の名称の由来
 主イエス・キリストがご自身の十字架によって、神の国へ入る道を開いてくださいましたから、私たちが入ることのできる国は十字架の下だけです。そこには救いの希望があります。私たちの心は感謝と歓びに溢れています。

カイザースヴェルトに所属するディアコニッセ母の家の基本規約 No.1

 カイザースヴェルト総会は、十字架にかかり、復活したまいし教会の主なるイエス・キリストによって、献身的愛の職場に召されたことを自覚する姉妹達とともに、幾多のディアコニッセ母の家からなる連合である。総会は次の規約によって活動する。
第一章 母の家奉仕運動(ディアコニー)と教会
1.《努(ディアコニー)は種々あるが、主は同じである》(コリント前12:5)。
 教会におけるすべての努めは奉仕運動である。この包括的な奉仕運動のなかで、狭義の意味の奉仕活動は心身の救済を必要とするすべての人々への奉仕である。この団体は、キリストが兄弟と呼びたもうかかる人々への奉仕において、神を賛美し、栄光のうちに再び来り、あらゆる困者を終わらせたもう主を待望しながら、神の憐憫を証しようとする。
 奉仕運動は、イエス・キリストの教会の本質と生命の発露である。奉仕運動は、教会史の過程において、幾多の形態で形成されて来た。カイザースヴェルト規約による母の家奉仕運動は、19世紀テオドール・フリートナーが設立した婦人奉仕運動の形態である。カイザースヴェルト総会に連合する母の家は、今日もなお、この形態において、教会の主の賜物と使命とを見出す。
2.母の家は、それぞれの教会に属すけれども、法的及び団体としての自主性を失わない。
第二章 ディアコニッセ母の家
3.ディアコニッセは主イエス・キリストの奉仕者である、とともに主のために、あらゆる種類の助けを要する人々に対する奉仕者である。ディアコニッセ相互間の奉仕者である。ディアコニッセは、神に従い、主イエス・キリストの愛を感謝し、聖霊の助力を信頼しながら、その務を行う。つづく

歴史探訪 No.2

ディアコニッセたちの活動
 浜松へやって来たディアコニッセたちは、それぞれ病棟に入って仕事を始めます。長い祈りと決断の準備のときを終えて、遠い未知の国日本に着いた彼女たちにとっては、ここで備えられた仕事は何であろうかという不安と期待とがあり、一方では日本語の習得も急がなくてはなりませんでした。ハニ姉妹だけは、ドイツで日本語を学び始めていたということもあって、理解の早さ、表現力の豊かさ、一回やるごとに上達するその早さには、目覚ましいものがありました。また、一人でどこへでも入って行くことができ、どこででも優れた能力を発揮することができました。病棟看護では優れた観察力により、聖隷の優れた看護方法を習得し、手術室看護婦としても優れた技術を持っており、医師からは高い信頼を得ました。1954年4月、准看護婦養成所教務主任が、病気のため1年休職することになると、その代行を勤めるまでになっていました。

牧師館がディアコニッセ母の家に
 やがて牧師館が4人のディアコニッセの住居となりました。後に日本人ディアコニッセ第1号となる山浦ミツ、市川一二三の2人の日本人見習いシュベスターとの、共同生活が始まりました。ここに名実ともに母の家ができあがったのです。1954(昭和29)年10月29日のことでした。
奥三河の山小屋(みぎわの小屋)の夢
それから3年近い月日が流れた夏のことです。三方原とは山を隔てた、奥三河に近い渋川に、小さな小屋がありました。その小屋にハニ姉妹がいたときのことです。その夜、接近する台風に伴う大雨が、渋川を襲いました。小屋のそばそそり立つがけが崩れて落石があったので、一番大きな石がまともに小屋をめがけて落ちました。不思議にもそれは建物を避けて床下に滑り込み、ハニ姉妹の命は助かりました。
ハニ姉妹はじっと祈り続けました。そのときある光景が彼女の脳裏に浮かび上がました。家族が働きに出たあとの農村の家では、おばあさんやおじいさんが一人で寝ているのです。お年寄りは一人で寂しく、話しをする相手もいません。ハニ姉妹は思いました。
私たちの老人ホームは、一人で寝ている老人のためこそなければならない。神様はきっと、私にそのことを命じておられるのだと。

祖国ドイツの教会や母の家から献金
1959(昭和34)年、ハニ姉妹は祖国ドイツに、老人ホーム建設のための資金を求める旅に出ました。それは船で2カ月もかかる旅でした。6年目にして初めての帰国でもありました。彼女は日本の風物、人情、生活を紹介する芝居をつくって、ドイツの母の家で演じて回りました。芝居の道具や衣装の入った大きな荷物を担いで、母の家から母の家へと、興行の旅を続けたのです。4カ月のあいだにドイツの母の家のディアコニッセ、諸教会の信徒たちから献金600万円が、新しい老人ホーム建設のためにささげられました。

神様の力の大きさでやりたい
 日本に帰ってきたハニ姉妹は、「日本人の仕事は日本人でやるべきです。私たちドイツ人は、ただそれを手伝うことだけです」と述べ、献金をすべて建設費用にと差し出しました。ハニ姉妹は、新しく作る老人ホームは聖隷の法人ではなく、別の法人を作ってやりたいと考えており、西村ミサに次のように話しました。「聖隷は大変大きな施設たくさんあります。長谷川先生もっとたくさんにするでしょう。長谷川先生の信仰の力大きいからです。長谷川先生いなくなったら、だんだん人間の力大きくなります。神様の力なしの、人間の力でするようになります。そのときまでもいつまでも、老人ホームは神様の力の大きさでやりたい。私たち働く人、みんなキリストの十字架のもとでだけ、一つになって働く団体にしたい。そのため別の法人にしたい。分かってくださいますか。いけませんか」と。この意を受けて、新しい老人ホームは別法人として発足することになります。

Mutters Haus Journal創刊号(2019.6) 

浜松ディアコニッセ母の家・十字の園 資料館 開館

 浜松ディアコニッセ母の家によって十字の園老人ホームが出来ました。まだ老人福祉法がない時です。昭和38年に老人福祉法が制定されるときに、十字の園をモデルに「特別養護老人ホーム」の基準等ができました。
 1960(昭和35)年12月28日に社会福祉法人十字の園の認可がおり、 1961(昭和36)年1月20日に十字の園老人ホームがスタートし、翌1月21日に4人の入園者を迎えました。2020(令和2)年度は、創設60年です。人間でいえば還暦です。
 世代が変わり、ややもすると一つひとつの歴史が忘れ去られて行ってしまいます。
 聖隷歴史資料館(聖隷学園5号館)には、聖隷グループの展示があり、十字の園の展示もあります。今回の資料館は、十字の園の4代目理事長が収集した資料、母の家に所蔵されていた資料などを展示しました。
 左の写真は、生活保護法時代の十字の園老人ホームの要覧(施設案内)です。十字の園の創設に関わったディアコニッセ、ハニ・ウォルフ姉妹が愛用していた日本語聖書(口語訳聖書)やハニ姉妹の直筆の日本語の手紙などもあります。

資料館の見どころ 案内

(その1)復活礼拝堂(母の家の南側)
 ディアコニッセの姉妹たちや十字の園職員たちが、毎週土曜日に礼拝していました。
 母の家とディアコニッセ、十字の園の写真や説明のパネルが展示されています。ディアコニッセの服装とドイツ風のクリスマスツリーを常時展示しています。
(その2)浜松ディアコニッセ母の家
 戦後、日本の復興のために来日したディアコニッセと日本人ディアコニッセの生活と教育の場として使われていました。現在は、デイサービス「のんき」の事業所として使っています。その北側、玄関から入った部屋に、浜松ディアコニッセ母の家と社会福祉法人十字の園のパネルの展示と資料や図書の展示をしています。
【Ⅰ】展示パネル
 ①十字の園の理念パネル …………… 1枚
 ②十字の園のあゆみパネル ………… 3枚
 ③十字の園に関わった人物パネル … 6枚
【Ⅱ】展示コーナー 中ブロック
 ①ハニ姉妹の日本語聖書、自筆の手紙、印鑑
 ②池田みち氏(入居者)のフィリピン里親資料
 ③十字の園、聖隷等の昔の機関誌
 ④母の家の日誌、会計簿
 ⑤4代目平井理事長 収集所蔵の資料
 ⑥VHS、DVD、スライド
【Ⅲ】展示コーナー 東ブロック
 ①購買部うちわ、20周年記念てぬぐい、看板
 ②十字の園パンフレット
 ③ドイツ風クリスマス飾り
 ④母の家所蔵のアルバム
 ⑤いろいろな写真、ディアコニッセ募集案内
 ⑥ストローム宣教師の本とポスター
【Ⅳ】展示コーナー 北ブロック
 ①ハニ姉妹来日時のボストンバッグ、かばん
 ②ディアコニッセの制服(作業服、礼服)
 ③帰国時のハニ姉妹への感謝状(厚生大臣)
 ④光子姉妹、一二三姉妹の看護婦免許証
 ⑤一二三姉妹の立志式の「祝福の詞」
 ⑥ディアコニッセ姉妹たちの海外の土産品

歴史探訪 No.1

 1934(昭和9)年9月、賀川豊彦の助言により、御殿場で開催された「イエスの友会」全国大会にて、長谷川保は、聖隷社の窮状を訴え、その結果、一坪献金運動が決議されました。この大会の中で「物言う手」が上映されました。この映画は、ドイツ・ベルリンのノアウエ聾盲唖院の、生まれながらにして聾盲唖(三重苦)のため、人間としての喜び得ることが出来ない人のために、聞くこと、話すこと、読むことの教育(訓練)の実践を映画にしたものです。全国から寄付が集まり、この資金により県から払い下げられた三方原の広大な土地を手に入れました。結核のための療養所は移転し、1936(昭和11)年に聖隷保養農園が設立します。十字の園の初代理事長の鈴木生二は、1945(昭和20)年、兄鈴木唯男がいる聖隷保養農園に務め始めました。
1945(昭和20)年、軍需産業都市・浜松の街は、徹底的な空襲や艦砲射撃によって焼野原になりました。終戦を迎えた時、野戦病院と化した聖隷保養農園で、長谷川保たちはキリスト教精神に基づいた祖国の復興を誓い合います。1946(昭和21)年、長谷川保は、戦後初の第22回衆議院選挙に立候補し見事当選を果たしました。国会議員として、生活保護法の制定に力を注ぐなど政治を通して、キリスト教精神を基に社会福祉政策の具現化を図っていきます。
 ブレーメン教区長、スイス、ドイツ、オーストリア、深夜伝道協議会議長であったP・G・メラー牧師が、同じ敗戦国である日本の社会状況を視察するために来日しました。賀川豊彦、長谷川保らに出会い、戦後復興のドイツよりはるかに遠い日本の現状を見ました。特に上野駅地下道に群がる戦争孤児たちに心を痛めました。「日本の教会は、どうしてこれに手を付けないのか」と疑念を表明し、「必要ならドイツのディアコニッセを派遣することができる」と提案しました。しかし日本のキリスト教団には、これを受け入れる用意がありませんでした。結局、長谷川保が引き受けることになりました。
 1953(昭和28)年11月15日午後4時、アトラス号に乗って、ドイツ・カイザースヴェルトより5人のディアコニッセと1人の婦人宣教師が横浜港に到着しました。ディアコニッセの団長はイルムルード・フォン・ハウグイッツ(1913年5月7日生)フランクフルト母の家、ヤンセン・フリーダー(1925年7月21日生)ブレーメン母の家、ヘルミネ・エルゼ・ペルミツ(生年不明)ドレスデン母の家、ドロテヤ・メンデ(1924年12月4日生)ヴェッセル・ブレーメン母の家、ハニ・ウォルフ(1914年5月5日生)ミュンスター母の家の5人と、宣教師の宣教団体ミッドナイト・ミッションから派遣されたエリザベート・ストローム(1922年・南ドイツ・ウルムの小さな村生)です。 当時の横浜港から浜松までの様子を8ミリで撮影した「ディアコニッセの来訪」のビデオで見る事ができます。
 長谷川保らの出迎えを受けた一行は、長谷川保の引率で、東京に行き、国会議事堂前で来日の記念の写真を撮りました。それから汽車に乗って浜松駅に到着しました。
 三方原に到着したディアコニッセたちは、大勢の人々の歓迎を受けました。一人一人名前を呼ばれて起立したのであるが、「最後のハニ・ウォルフが、床をけるように勇ましく立ち上がった姿が、今も鮮やかに思い出される」と、後に語ったのは、その後、彼女の日本語の教師となり、よき相談相手となった西村ミサです。

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