人格を尊重し、生きる喜び、生きる自由、生きる希望を創ります。

福祉

「夢と挑戦の物語~目の前の課題にむかって44年」

 2019.11.6佐賀キリスト教社会事業団講演(抜粋)

6.夢と挑戦の始まり
 十字の園で働いた44年間を振り返ってみると、夢を実現するための挑戦(チャレンジ)の日々だったような気がします。

①官庁簿記から複式簿記

夢:会計の実務ができるようになりたい

 官庁簿記と言ってわかる人は少なくなりました。家計簿のような単式簿記です。1975(昭和50)年は単式簿記で会計処理をしていましたが、複式簿記に切り替わるころでした。県主催で簿記の研修が持たれました。前の仕事で保育園や福祉施設とも取引があり、事務職員の方を知っていたので自主的に勉強会を持とうと呼びかけ、静岡県東部事務部会を作り、毎月勉強会をするようになりました。この勉強会は会計だけでなく、社会保険、労働保険の勉強もしました。会計では複式簿記から福祉簿記へ、会計基準へと移行してきましたが、勉強会を通じて知識が増えていきました。県社会福祉協議会主催の福祉会計の講師をしたことがあります。一度は公認会計士や税理士の前で「福祉会計とは」と題して講演したことがあります。肩書は“非公認会計士”です。

②音楽療法

夢:これまでの経験を生かして仕事をしたい

 楽器会社に勤めていたことと中学・高校とブラスバンドにいたことを生かそうと施設長に提案して楽器を購入してもらい、音楽の好きな職員に声をかけて音楽サークルを始めました。毎月1回開く音楽サークルは利用者の楽しみになりました。伊豆高原に転勤してもが気を購入し音楽サークルを作りました。私がやり始めると大掛かりになり、約8割の利用者が参加し、大太鼓、小太鼓、トライアングル、カスタネット、鈴はもちろん、キーボード、鉄琴、木琴も加わった大編成で、見学や交流の時には演奏もしました。この頃に「音楽療法」という言葉も生まれ、講習会も開かれました。その時のカセットテープが残っています。

③園内かわら版と広報誌(機関紙)

夢:職員と入園者との距離を近くにしたい

 寄付金を募るための支える会(後援会)の機関紙(広報誌)はありましたが、施設内の利用者と職員の交流を目的にした施設内広報紙を提案し、協力者を募り月間紙として作りました。月の予定、利用者と職員の誕生日、最近のホットニュース、今月の話題などを取材し掲載します。「かわら版」と名前を付けました。いまでも細々ですが続いているようです。これも伊豆高原に行っても、浜松に行っても口火を切って始めました。「かわら版」は身近な話題、広報誌は施設の支援者へものですから、目的も編集内容も異なります。支援者に対して施設の運営や経営の「公表」の役割と施設が持っている知識をお知らせする「知っ得情報」を載せています。広報誌の作り方の研修も開催されるようになりました。最近、写真だらけの広報誌が目にしますが、私から言うと「手抜き広報誌」です。見出しの書き方、写真の入れ方、ページの構成など考えていないものが多くあります。十字の園も今年度号から新スタイルの広報誌になり、広報委員は満足のようですが私の評価は下です。広報誌には「気品」が必要です。伊豆高原でも浜松十字の園でもアドナイ館、第2アドナイ館でも機関紙を作ってきました。

④職員レクリエーション

夢:楽しく仕事をしたい

 利用者に楽しみがあるように職員にも楽しみが欲しいと思い、景品を施設長のポケットマネーに頼み、卓球大会(1ヶ月間昼休みに銘々対戦し順位をつける)、クロッケーゴルフ大会(裏庭の芝生に9ホールを作りゲートボールのスティックとボールをホールごとに打数を記録する)を開催しました。参加者全員に景品を出しました。また、これまでも開催してきた運動会に応援合戦を種目に加えて仮装行列を取り入れました。職員で希望者を募って宝くじを購入するクラブも作りました。老人ホームから「宝夢(ホーム)クラブ」と名付けました。

⑤寄付金の募金

夢:寄付金を募って安定した経営にしたい

 介護保険制度が施行される前までは措置費による運営でした。措置費は市町村から利用者の受け入れの報酬です。その中身は「税金」です。使い道に制限があり、施設の運営にかかる経費以外には使えません。例えば借入金の返済財源や法人で購入するものなどは、法人で資金を作らなければなりません。その、手段が支援してくれる方々(支える会)からの寄付金です。御殿場十字の園は施設ができる前から支える会があり、寄付金を募って借入金の紹介財源となっていました。伊豆高原十字の園ができ、私は御殿場から伊豆高原に転勤となりました。施設を整備するときには建物や備品に国・県・市町村から補助金がありますが、それだけでは賄いきれませんので、国は県との関わりあるところからの借入金で賄います。

⑥事務職員としてのキャリアアップ

夢:役に立つ資格・技能を身に着けたい

 御殿場時代には、ボイラー技士の退職によって資格者が必要になり、2級ボイラー技士資格を取得してボイラーの管理をしました。診療所があったので医療請求(レセプト)があり、講習を受けて医療請求事務を担当しました。福祉で働く中の資格として社会福祉主事任用資格を1年かけて取得しました。その後の施設長を担うときにその資格を活用しました。施設管理の関係で、消防署の受講によって防火管理者の資格を取得しました。公的な資格ではないのですが16ミリ映写技術の講習で取得しました。

⑦施設整備と土地取得

夢:施設整備に関する知識を身につけたい

 ケアハウス・アドナイ館の施設整備では建物設計、土地取得、国・県・市町村補助金申請、福祉・医療事業団・県社協借入金申請、運営関係の資料作り、入居者募集、契約書・運営規定など、必要なことすべてを任せられて行いました。特に、土地取得では「土地収用法」についての手続きを、税務署の担当者のアドバイスと、その内容がわかるテキスト(3000円で購入)により、不動産業者に依頼することなく行えました。この経験は、御殿場十字の園の全面改築事業の土地取得に役立ちました。アドナイ館での経験は、福祉・医療事業団(現在の福祉・医療機構)主催の「ケアハウス経営指導研究会」の第1回から4回まで講師をさせていただきました。御殿場十字の園の建て替え、御殿場アドナイ館の創設、松崎十字の園の創設、民間の建物を取得しての小規模多機能事業の開設、第2アドナイ館の創設や伊東市立養護老人ホームの管理受託事業の展開の役立てることができました。

⑧事務プロを目指して

夢:福祉事務に関する知識を身につけたい

 パソコンは、伊豆高原十字の園にいるころ、伊東市社協主催のパソコンの市民講座に一週間に出ただけで、あとはパソコンを購入しプログラムのテイストを買って独学で勉強しました。ワード・エクセル・パワーポイントはある程度こなせるほどになりました。県社協主催の社会福祉法人のOA化で導入経験から活用を含めた講師をしました。静岡県福祉指導課で「監事監査マニュアル」を作成するときには委員として参加し、静岡県版の「監事監査チェックマニュアル」が出来上がり、初回メンバーであったので改訂版がでても私の名前は載っています。県や市の指導監査では一目置いていただき、スムーズな監査が実施されました。ある時は、監査開かないまま、ひと通り目を通してきましたからと、雑談をして半日で終わったこともありました。

⑨施設長、理事長として

夢:管理者としての資質を身につけたい

 最初に施設長になったのはケアハウス・アドナイ館です。はじめての全責任を負う経験はプレッシャーでした。聖隷の大先輩にクリスチャンは私一人しかいない中でキリスト教主義の運営をしなければならないと話したら「一人いれば十分だ」と言われました。施設長になるときに借入金の返済のことなどいろいろな不安があり、初代の理事長夫人にお話したら、『大丈夫よ、何とかなりますよ』と励まされましたアドナイ館の建設中に制度が変わり、施設整備の補助金が増額し、借入金償還補助金が増え、定員の確保さえしていれば経営的に安定することになりました。介護保険制度については、2級ヘルパーの講座を持っていましたので自然に覚えることができ、介護福祉士の研修会で「介護保険制度とは」で講演したこともありました。介護保険制度をA3一枚で説明できるものも作成し、東京海上保険が資料作りをするときの参考になったようです。運営面では、県主催の「第1回ユニットケアセミナー」の講師をし、あちらこちらから講演依頼がきたものです。

「親亡き後の高齢化問題~わが子とのこれまでこれから~」

 これは岡県作業所連合会・わ 2019年度施設長研修会。
(期日:2019年9月6日 会場:浜松グランドホテル)

1.障碍を受容する親ごころ

 産まれた日の12月12日の朝は、雪景色であった。泣き声がなかったのを今も覚えている。父親にはわからなかったが、母親は成長の遅れが気になっていた。言葉が遅く、寝返りなども遅いのが気になる。施設の医師の紹介で県立こども病院を受診した。脳波等検査したが異常はなく、単なる遅れの判断だった。1歳前に姉が風邪で入院し、同じように熱を出した。3歳ころから熱を出すとけいれん起こすようになる。伊豆高原に転勤し、伊豆高原に移ってからは熱を出すとけいれん発作の時間が長く、無意識の状態が長く続くようになり、子ども病院を受診し、服薬を開始した。熱が出てもけいれん発作は弱まったが、薬のせいで表情がなくボーっとしていることが多くなった。遅れのある子の子育て教室にも参加した。けいれんの薬を止めたいと岩手県気仙沼にある療養施設に1週間のトレーニングに行き、服薬を止めた。
 このころの私は、何とかしてこの病気を治したいという気持ちが強かった。障碍児として受容できなかった。幼稚園入園は難しかったが、私立の幼稚園でモンテッソーリ教育をしているところに受け入れてもらったが、一人黙々と壁に向ってペグさしをしていて、友だちとの触れ合いもなく退園した。知人で無認可の乳児園に入れてもらった。赤ちゃんの好きな娘の表情がよくなった。
 小学校に入学する時期になり、福祉事務所に相談し、障碍認定の調査の申請をした。結果、療育手帳Aの認定があり、同時に特別児童扶養手当の受給もできるようになった。このころが障碍を何とか受容できた時で、この子のこれからを思い始めた時でもあった。伊東市内には養護学校はなかったので、普通学校のなかよし学級に入学した。

2.障碍認定を申請する親ごころ

 小学校入学のために障碍の認定を申請した。明らかに知的障碍と判っていても認定の申請はずっと躊躇していた。レッテルを貼りたくなかったのだ。結果は「療育手帳A」の判定で、同時に特別児童扶養手当が受給できるようになった。所得税でも特別障害扶養控除を受けられ、医療費、電車の割引、高速道路の通行料割引など、多くのメリットがついてきた。
普通の小学校から中学、高校を出て、専門学校に学んでいた人がいた。2級ヘルパー資格の講座で講師をしていたので、その学校の先生から相談を受けた。麻痺があり言語と身体に障害があり、就職ではどこも受けてもらえなかった。十字の園に就職できないかとのこと。本人はこれまで障害認定を受けてこなかった。本人の気持ちと親の思いである。社会生活には問題はないが、就職となると言語障碍は就労にハンディーとなる。障害者雇用となれば道も開けるのではと、障碍者認定の申請したらと伝えた。結果は、身体障害者3級と認定され、十字の園で採用した。2級ヘルパーの資格もあり、デイサービスで働くようになった。十字の園には職員寮があり、家を出て寮に入って、親と離れた自分の生活を提案した。現在は、介護保険関係の事務職員である。勤続20年になる。
 障碍者(児)への社会の理解のうえで、バリアフリーからユニバーサルデザインへの考え方がなかなか定着してきていない。

3.障碍と向き合う親ごころ

 伊東では普通学校の中のなかよし学級で、健常児と日常的に触れ合う環境があった。法人から浜松への異動を命じられた。やっと慣れてきた学校生活だったが、浜松に行ってからの学校について考えることになった。浜松市の教育委員会に相談に行った。私の中では、伊東のように普通の学校の中で特殊学級がいいのではとの思いがあったが、教育委員会の勧めで浜松養護学校に相談に行った。そこで出会ったのが、卒業後もいろいろアドバイスをいただいた主事の先生だ。この子の将来を考える時に、特殊教育を受ける場として、養護学校に通うことが一番の選択だと決心した。小学部2年への編入である。同学年だけでも2クラス30人くらいいて、小学部だけでも200人近い生徒とその親と会うことができた。伊東時代もPTA的な行動をするタイプで、なかよし学級の教室は日の当たらなく冬は暖房もなく寒かった。全学年1クラスで、募金してストーブを購入しようと持ち掛け、学校にも寄贈する許可を得た。そこで、募金をしたが、結果的にはほとんど私の家で出すことになったが、PTAからの寄贈でストーブが入った。浜松養護学校でもできるだけ学校に関わるようにした。通学バスがあり、乗車バス停が同じところで母親同士が親しくなった。この出会いがその後のミントの会の活動につながることになる。
 1987年7月7日、母親たちの勉強会がある家に集まって「ひかりのさと愛光園」のビデオを観ての勉強会だった。この日をミントの会の創立日となった。

4.障碍に挑戦する親ごころ

 1987年7月21日、小羊学園でビデオを観ての勉強会。父親への参加を呼びかけて7家族が参加した。それがミントの会の結成、またパン・クッキーの店「ミントの家」につながる。ミントは父親と母親が協力しながら行動することが特徴だった。一泊旅行は施設見学と観光であり、施設や作業所などを見学した中で、親が元気の間は通える居場所を作ることが目標であった。各家ごと50万円出し合ってログハウスを作ろうとした。西友のある近くで杉の木を40本を購入し、父親が時間を作りながら木を伐り皮むきをした。結果的にはログハウスは諦め、各家で200万円出し合いパンの店と集まる場所に計画変更をした。この時点で、多動の子の家族は無理だということで離れた。6家族で、募金活動とバザー、フリーマーケットに出店して資金を作った。また、パン屋は朝早いために、私が2階にわが家を建てることにした。
建設地は仲間の家族の豚小屋のあったところにした。その小屋を自分たちで壊し、木材関係はチップを扱う所に持ち込んで売った。井戸も掘った。6家族が協力し合って行動してきた。途中から1家族が加わって7家族なった。小規模作業所を計画したが、仲間が一人の年齢と住所が異なり、全員が入ることに問題があり、パン・クッキーの事業所(お店)とすることにした。障害者雇用の制度による補助金を上手に用いて、20年間を家族で経営してきた。7人の知的障碍の仲間の子と、1名の聴覚障碍者の8人の障碍者とお母さんの交替でのパン工房の勤務、子どもたちの仕事等のサポートの職員3名、ボランティアで運営することができた。子どもたちは卒業すると順次、ミントの家に採用され従業員となった。私の娘の採用は、浜養の校長室で、採用内定授与式として行われ、本人(娘)にミントの家の事業主(母)から、PTA会長(父)の立会いのもと通知書が渡された。4月にもらってきた給与は、82,000円ほどで、その初給料で、自分のお菓子を買い、合わせてお父さんにもと亀田の柿の種6袋入りをプレゼントしてもらった。それぞれの親にとって、就職して給料をもらってくるとは夢のまた夢の出来ごと事で良き想い出になった。

5.障碍へ「やればできる」と親ごころ

 学年も違い、地域も違う偶然で一緒になったミントの会。父親は福祉職員、市役所の公務員、農業兼ガソリンスタンド勤務、農業兼印刷会社、証券会社、工場勤務、会社員と日常はそれぞれの所で働き、お母さんは子供を見ながら専業主婦の組み合わせで、全員が事業主で全員がリーダー、総合力で20年間のお店をやってきたというかやってこれた。労働制度の障害者雇用を活用した事業所についてもそれぞれの知恵を出し合い意見を出し合いやってきた。販路についても、それぞれの関係や販路を開拓して売り上げを増やしてきた。子どもとのふれあい、バザーやフリーマーケットの出店のために店は土・日・祭日を休みにしてきた。知的障碍では全員「療育手帳A」で、重度である。しかし、指導員としての職員は、それぞれの持てる能力を最大限に活用し一人ひとりと関わってきた。母親はパン工房中心で子供たちの作業(仕事)には関わらない。10年過ぎからはパン工房にも職員を採用し、受け渡し体制を作り始めた。店頭販売のほか、病院、ファーマーズマーケット、事業所、会社、養護学校等への持ち込み販売により、年間3000万円ほどの売り上げがあった。パン・クッキーンの店「ミントの家」20周年を契機に、ミントの会の運営は終了し、建物、備品、車両をすべて無償で貸し、他の法人に運営を任せることにした。その時点から社会福祉施設の就労継続支援B型の運営になり、子どもたちは職員から利用者に、パン工房の職員を含めて委託した法人の職員として採用された。

6.障碍者と親はいつまで生きられるか

 1987年7月から始まったミントの会は結成から32年になる。この間に7人の子のうち2人が亡くなった。1992年のパン・クッキーの店「ミントの家」が開店して経営してきたミントの会も2012年6月に他の法人に経営を移管した。結成時40歳だった私も現在72歳。父親と母親は年齢を重ね、前期高齢者または後期高齢者になり、ログハウスを自分たちで建てようと購入した40本の杉の木をチェーンソーで切り倒し、皮むきした成年たちも、老境に達してきた。また、子たちも40前後になり健常者より早く老いの兆候が表れてきた。

「重度障害を抱える子と親にとっての8050問題」

   参照 多摩療護園園長 平井 寛 氏
◆平均寿命の延びが変化をもたらした
①30~40年前は親御さんが他界され、兄弟など他の家族が介護をしているか、社会的入院が多かった
②今も昔も、障害を抱える子供を、親の寿命が尽きる直前まで介護するケースはなくならない
◆知的障害を抱える人の人生・生活の分岐点
地域生活が困難になるタイミング
・1歳~就学前検診での指摘親の障害受容困難
・18歳:卒業後の環境の急変
・18歳から20歳まで障害年金がまだないため経済的に厳しい時期
・20歳から30歳くらいまで入所施設、グループホーム探し。なかなか空きはでない
・35歳頃親が定年退職。権利擁護、相続問題の検討
・40歳頃本人の体力、能力低下:通所先の変更
・40~50歳親が80代になり認知症や入院で支援者不在、急遽施設入所となる等。引き籠っていた知的発達障害の50歳代の子供が「発見」されることがある
・60~70歳高齢になり医療的ケア度が高くなると入院・特養等へ
・65歳~介護保険優先で自己負担増
◆課題を模索(同報告書の平井寛氏)
① 本人と親にとって、抱える課題が解決しないまま最終段階に来てしまった。残された時間は少ない
② 本人の重度化と親の高齢化が同時に来る困難さ
③ 全般的な支援資源の不足、サー ビスの自治体間格差
◆どのようなことが必要
①相談が可能なケアコミュニティづくり
②支援サービス利用体験の推進
③連携・協働の継続支援ネットワーク
④ライフステージに沿った支援体制の強化
⑤地域で最重度者等の生活支援拠点づくり

地域包括ケアシステムの構築

現役時代、地域包括ケアシステムの構築に取り組もうとしてきた。最近は「我が事、丸ごと」と言葉はかっこいいが、法人の垣根を越えて取り組まなければできないと感じた。

7.8050と我が家ではどうしようか

 「8050問題」とは、「80」代の親が「50」代の子どもの生活を支えるという問題です。背景にあるのは子どもの「ひきこもり」。ひきこもりという言葉が社会にではじめるようになった1980年代~90年代は若者の問題とされていたが、約30年が経ち、当時の若者が40代から50代、その親が70代から80代となり、長期高齢化。こうした親子が社会的に孤立し、生活が立ち行かなくなる深刻なケースが目立ちはじめている。(「NHKハートネット」より)
 今から40年ほど前、初老のお父さんと知的障碍の40歳ぐらいの子と食事をしている姿を見たとき、そうなりたくないと思って自分の子のこれからの生活を考え、それがミントへの挑戦だった。40年後に同じ姿の自分がいる。
 私が72歳、娘が42歳で、8年後に「父80歳」で「子50歳」という8050家族となる。今年の3月で十字の園の理事長を退任し、6月の定時評議員会で理事を退いた理由の一つは、2年半前脳梗塞になり、幸いに言語身体に支障をきたすほどの麻痺はなかったが、健康不安はが理由。新社会福祉法の組織等が整い、次の世代に手渡せる人材が育ってきたことにある。もう一つの理由は、もともと知的障碍と軽い麻痺があった娘が、5年ほど前から歩行、衣服着脱など少しづつできないことが増え、歩行器での移動、長い距離では電動アシスト車椅子を使うようになり、階段や室内のあちこちに手摺をつけて自力での行動のための環境を作り、これまで日常では母親任せだったのを、生活介護のに通いながら、私も仕事を辞して、母親と協力しながらこの子の家庭生活ができるだけ長く続けられるようにしたかったのも理由だ。
 障碍のある子を持つ親として、私たち夫婦で話をしたことは、普通は親より先に子が亡くなるというのは親不孝だというが、私たちはこの子を看取りたいと思っている。少しでも長生きしてほしいという思いはあるが、この子を残して死ねないという思いもある。私たち夫婦には3人の子があり、障碍のあるこの子は次女である。長女は結婚していて豊橋に住んでいて、孫2人、家族でこの子に良くしてくれ、家に来て関りを持ってくれている。3女は結婚をしそうになく、演劇をするために働いている生活なので余り当てにならない。
 ミントの会でいろいろな経験をしてきたこの子のこれまでは幸せだった。体は不自由になり、言葉も話せなくなったが、意志は通じ感情も表すから、これからもできるだけ充実した幸せな日々を作っていきたいと思っている。

8.親亡き後の高齢化問題

軽費老人ホーム(ケアハウス)
『軽費老人ホームの設備及び運営に関する基準』の(対象者)第十三条には「軽費老人ホームの入所者は、次の各号に規定する要件を満たす者とする。一 身体機能の低下等により自立した日常生活を営むことについて不安があると認められる者であって、家族による援助を受けることが困難な者。二 六十歳以上の者。ただし、その者の配偶者、三親等内の親族その他特別な事情により当該者と共に入所させることが必要と認められる者については、この限りでない。」とある。「三親等内の親族その他特別な事情により当該者」は60歳以下でも入所対象者になる。例えば、障碍のあるわが子と私が軽費老人ホームに入所できるということである。知的障碍の人は生活の場所と人間関係、生活リズムが大事だ。親と一緒に入所し、その環境等に慣れて生活し、親亡き後もそこで生活を継続できるのではないか。実際、ケアハウス・アドナイ館では2家族が障碍者と一緒に入所している方がいる。
特別養護老人ホーム(介護老人福祉施設)
特別養護老人ホームのユニット型の施設で、一つのユニット(10名)を、高齢障碍者専用にして高齢者障碍者を受け入れているところがある。障碍者施設での職員の専門性と介護施設での職員の専門性の違いがある。介護の必要な障碍者の場合、障碍者としての特性に関わることより、入浴、排泄、食事の介護に重きがある場合には、特養での生活が安心の場合がある。浜松市の場合、3月まで浜松市老人福祉施設経営者協議会の代表をしてきたが、その時点の情報になるが、一時期、入居要件に要介護3以上とされたとき、多くの施設で待機者が少なくなり空きベッドが出た時があった。その状況はだいぶ解消され、待機者が増えてきた。今は、介護職員が充足されていないために空きベッドが出ている。また、介護の経験の少ない職員や充分教育できないまま現場に出ている施設もあると聞く。「みんなの介護」で検索すると待機状況や職員の経験等が分かる。
「共生型サービス」
社会保険審議会介護給付分科会第142回会議にて「共生型サービス」が示された。
介護保険優先原則の下では、障害者が65歳になって介護保険の被保険者となった際に、使い慣れた障害福祉サービス事業所を利用できなくなるケースがあり、平成27年12月に社会保障審議会障害者部会から見直すべきとの意見が出されていた。
「地域共生社会」の実現に向けて(平成29年2月7日厚生労働省「我が事・丸ごと」地域共生社会実現本部決定)において、①「人口減少など地域の実情に応じて、制度の『縦割り』を超えて柔軟に必要な支援を確保することが容易になるよう、事業・報酬の体系を見直す」、②介護保険に「共生型サービス」を創設し、障害福祉制度の現行の基準該当の仕組みについても、報酬において障害支援区分を勘案していない等の課題に対応するため、障害福祉制度に「共生型サービス」を創設する。これにより、介護保険又は障害福祉のいずれかの指定を受けた事業所がもう一方の制度における指定を受けやすくする見直しを行う。また、平成30年の介護・障害報酬改定において、「共生型サービス」の創設に伴う基準・報酬についての必要な対応を行う」とされている。

9.おわりに

私個人の「親ごごろ」の話になってしまってご期待に沿えなかったと思う。ユニバーサルデザインの地域を一緒に作っていきたいものだ。

「長谷川保の看護・福祉思想とその精神の継承」

 これは日本看護歴史学会における講演のレジュメです。
(期日:2018年8月24日 会場:広島文化学園大学呉・阿賀キャンパス)

1.はじめに
 古希(70歳)を記念し、次世代への継承を思い、「創立の精神(こころ)の継承(バトンタッチ)」という本を自費出版し十字の園の職員たち、親戚、知人に配布しました。十字の園の歴史、メッセージ、聖隷グループの歴史などを記しました。4代目理事長としての責任と使命は「十字の園を次世代に受け継ぐこと」を胸に仕事をしてきました。
2.ディアコニッセとは
 日本では〈奉仕女〉と訳している。ドイツのカイゼルスヴェルトにおいて1836年に、フリードナーにより創始された教会的役職の一種である。牧師が宣教と牧会の業を主とするのに対して、奉仕女は救済の業に専念するために結婚を放棄して「ムッターハウス・Mutterhaus,母の家」に入り、生涯をその一員として送る。ドイツを中心として全世界に広まり、施設や教会区、個人の家庭において、キリストの愛を実践したクリスチャンの社会運動であり、ナイチンゲールも、後の赤十字運動もここから生まれている。日本では1954年、ベテスダ奉仕女母の家と浜松ディアコニッセ母の家が創立された。また、ドイツ交友奉仕会(DGD)の働き(運動)から、1985年5月16日に神戸市東灘区御影に「母の家ベテル」が創立された。
3.長谷川保と「聖隷のこころ」
 1926(大正15)年4月、イースターの午後に、長谷川保ら10人ほどの青年キリスト者たちが、社会福祉事業を行うことを目的として聖隷社を創立した。彼らはイエス・キリストが奴隷の形をとって、弟子たちの足を洗われる姿を、キリスト者の理想の生き方と考えた。自分たちもキリストに倣い、聖なる神の奴隷となって神と世の人々とに仕える生き方をしようと誓い合った。
聖隷集団の徽章もこの個所を象徴する。外側の二重の円はイエス・キリストが用いられた「たらい」を表している。

①聖隷の歴史 黎明期~創業期(映像)
②長谷川保語録

・神様、もしあなたの御用に立てなかったら、いつでもつぶしてください。
・一番確実で大切なことは、世の中が必要としていることを、全力を挙げて果敢に実行することだ。
・野垂れ死にすることをもって理想としよう。
・明日はどうなるか知らないが、神様にお返ししよう。
・この事業で一銭の財産もつくりません。
・人はよしいかにいうとも、わがつまは日本一の一の一なり。
4.ハニ・ウォルフと長谷川保

『女性版長谷川保、ハニ・ウォルフの奮闘」

(聖隷歴史資料館所蔵の映像)
5.日本で最初の特別養護老人ホーム
①「創立のこころざし」
 まあ、始めるなら、政府から十分のお金が来ないから大変でしょうが、それじゃあ勇気を出して、主イエスを頼んで、主イエスと一緒に一番困っていらっしゃる看護の必要な方々を迎えてやりましょう。その時から十字の園の建設が私達の使命になりました。(ハニ・ウォルフ)
②「日本ではじめての病弱老人のためのホーム」
 ハニ・ウォルフさんが休暇を得て故国に帰るに際し、着物や羽織、袴、下駄や草履、菅笠、唐傘を小包にして送った。ハニさんは、それらをもってドイツ国内各地の教会や母の家を訪れ、日本の風俗を紹介し、或いはドイツ娘に和服を着せてお芝居をして観せ、そして日本の老人間題の窮状を訴えてホーム建設のための資金を募ってくださったのである。(鈴木生二)
6. 十字の園の歴史とディアコニッセ
『十字の園老人ホームが出来るまで』(記念映像)
 1946(昭和21)年、ブレーメン教区長、スイス、ドイツ、オーストリア、深夜伝道協議会議長であったP・G・メラー牧師が、同じ敗戦国である日本の社会状況を視察するために来日しました。賀川豊彦、長谷川保らに出会い、戦後復興のドイツよりはるかに遠い日本の現状を見ました。特に上野駅地下道に群がる戦災孤児たちに心を痛めました。「日本の教会は、どうしてこれに手を付けないのか」と疑念を表明し、「必要ならドイツのディアコニッセを派遣することができる」と提案しました。しかし日本キリスト教団には、これを受け入れる用意がありませんでした。
結局、長谷川保が引き受けることになりました。長谷川保はかつて、「もの言う手」というドイツ・ディアコニッセが、盲、聾、唖の三重苦を負う児童たちに、手話を教える情景を撮ったフィルムを見て、心を打たれたことを覚えていたからです。
(略)
 それから3年近い月日が流れた夏のことです。三方原とは山を隔てた、奥三河に近い渋川に、小さな小屋がありました。その小屋にハニ姉妹がいたときのことです。その夜、接近する台風に伴う大雨が、渋川を襲いました。小屋のそばにそそり立つ崖が崩れて落石があったので、一番大きな石がまともに小屋をめがけて落ちました。不思議にもそれは建物を避けて床下に滑り込み、ハニ姉妹の命は助かりました。
ハニ姉妹はじっと祈り続けました。そのときある光景が彼女の脳裏に浮かび上がました。家族が働きに出たあとの農村の家では、おばあさんやおじいさんが一人で寝ているのです。お年寄りは一人で寂しく、話しをする相手もいません。ハニ姉妹は思いました。私たちの老人ホームは、一人で寝ている老人のためこそなければならない。神様はきっと、私にそのことを命じておられるのだと。
(略)
 1959(昭和34)年、ハニ姉妹は祖国ドイツに、老人ホーム建設のための資金を求める旅に出ました。それは船で2カ月もかかる旅でした。6年目にして初めての帰国でもありました。彼女は日本の風物、人情、生活を紹介する芝居をつくって、ドイツの母の家で演じて回りました。芝居の道具や衣装の入った大きな荷物を担いで、母の家から母の家へと、興行の旅を続けたのです。4カ月のあいだにドイツの母の家のディアコニッセ、諸教会の信徒たちから献金600万円が、新しい老人ホーム建設のためにささげられました。
(略)
 保護施設としての、十字の園老人ホームがついに開設しました。最初の1年間はすべての職員の安い給料と、母の家の姉妹たちの無報酬に近い奉仕により支えられました。
7.次世代に向けて「創立の精神(こころ)の継承(バトンタッチ)」
①プロとは~自分の仕事に使命感を持つこと~
 プロフェッショナル(プロ)とは何か。専門職としての資格なのか。 野球・サッカーなどの選手は、資格はないがスポーツを生業としたプロと呼ばれています。実力次第の厳しい世界です。 プロとは、「自分の仕事(職務)に使命感を持つこと」。プロになるためのキーワードは、創造力・ 自負心・挑戦・責任・知恵・勇気・革新・成長・エンジョイ(夢)・学び・行動」だと思います。
②一人称で自分さがし
 自分さがしというのは一人称で生きることです。ぜひ一人称で生きてください。それは「わたし思考」で生きることです。
一人称で生きるとは、その困ったことのために私は何ができるだろうか、と考えることなのです。一人称で生きること、そこに自分との出会いがあるのです。そこが出発点です。
8.おわりに
 『わたしはマザーに会った-20人が語るマザー・テレサのすがた-』に次のように書きました。
 1984年11月下旬に、老人福祉施設「十字の園」にマザー・テレサがお見えになった。ほんの短い時間だったが、職員にもお年寄りたちも一様に感動を覚えた。(中略)「一人ひとりが大切なのです。みんな神様に祝福されているのですから。」当たり前のようでいて、当たり前でないことば。

「ハニ姉妹から鈴木唯男先生への直筆の手紙」

ハニ姉妹から鈴木唯男先生に、「主の祈り」を書いて送ってくださいの依頼の手紙です。1996年6月6日に書かれた手紙です。

羽に姉妹から鈴木唯男さんへの直筆の手紙1996
羽に姉妹から鈴木唯男さんへの直筆の手紙1996

「鈴木唯男先生の療養記録-昭和12年4月~」

鈴木唯男先生が結核患者の世話を始めた時に自ら結核に罹り、療養を始めました。大橋徳三氏から厳しくしつけられた療養の記録は、回復後に患者の療養の模範となったことでしょう。

鈴木唯男結核療養中の記録3WEB
鈴木唯男結核療養中の記録1WEB

「福祉の道40年~この道より我を生かす道なし~」

       2015年9月10日 社会福祉法人新生会公開講座にて
●障がい者福祉に思う(障がい者の親の立場から)
 私の次女は知的障がい者です。自分の子の障がいを認めるには時間が掛かります。認めてからは障がいの子の存在が見えてきます。

「この子供達は、忙しい世の中にあっても動じない、ゆったりとした時の流れの中で生きていて、そばにいるものをほっとさせます。私自身、我が子によって、一番大切なものを見つけることができました。社会の何の益にもならないと思われている子供達が、本当がすばらしい存在であることに気付かされました。そしてこの子供達には、社会の中で生きる使命があるのではないかと思いました。親である私は、その為に何をしたら良いのか、いつも考えていました。その頃、やはり、子どもの将来を早くから考えている親達と出会い、手さぐりで勉強会が始まりました。子どもにあたり前の生活をさせたい、家から通えるところがほしい、それぞれの能力に応じた仕事と生活ができる所はないかと、数カ所の施設や作業所の見学もしました。そして結局は、自分達の理想とするものを自分達で造ることで一致したのです。4年近くの活動の後に「ミントの家」が出来上がりました。(記:平井のぶ子)」

 「ミントの家」は、1991年3月に建物が竣工し4月に開店。1993年に中学部卒業して1人入社。その後1995年1名、1996年2名、1997年1名、1998年2名で全員が就職しました。個人事業所のパン・クッキーの店として20年間親たちの経営で運営してきました。年間売上3,000万円の実績をもって、NPO法人の就労継続B型として運営されています。
 ミントの家の年間売上は3000万円です。総合病院の売店2か所、農協(ファーマーズストア)3カ所、訪問販売(福祉施設、近所の工場、特別支援学校など)とバザーの出店で販売します。
 個人事業所の障がい者雇用ですから入社すると給料を支給します。私の娘も高等部を卒業して入社し、4月25日に初給料をもらいました。支給額は当時の最低賃金で最低勤務をクリアして83,328円でした。我が子が就職して給料をもらうという夢の夢のようなことが現実になりました。他の親たちも同じ思いだったようです。障がい者雇用制度を巧みに使って順調に運営をしてくることができました。18周年を迎えたときに親たちは「これから」を考え始めました。
 20周年を迎え、パン・クッキーの店「ミントの家」は、障がい者支援事業を運営するNPO法人に受け継がれ、就労継続支援B型として運営されています。2011年3月、ホテルを会場に「ミントの会(家族会)」主催の創立20周年記念祝会を開催しました。1987年に勉強会を始めてからは24年、親たちが仲間割れもなく続けてくることができたと改めて思います。同じパン・クッキーの店「ミントの家」に通っていますが、従業員から利用者と身分が変わったことは、何となく複雑です。

「神の国の種を蒔こう」の中から

勇気の出ることば

「人間の計画より神の計画の方が大きくて完全なのだから、人間の小さな失敗は決して失望せずに進むこと。」
「結果を考えて従うのではなく、初めから主義として無条件に神の指導のままに従っておけば決して間違いはない。私は常に夢を描いている。」
「人間の健康を妨げるものは心配と不安と恐怖であるが、神に一切をゆだねたいわゆる信仰生活に入れば、悩みはなくなり、いつも健康的な生活を営むことができる。」

W.メレル.ヴォーリズのメッセージをまとめた本です。いま読み進め中です。また、見つかった「ことば」を掲載します。 …つづく…

「伝道と奉仕の団体『十字の園』」

キリスト新聞社「教会と地域福祉」フォーラム投稿

 十字の園に日本キリスト教社会事業同盟事務局がある関係で、所属団体の創立の精神を継承していくことの苦悩を感じ取ることができます。職員にクリスチャンが少ないだけでなく役員や代表にもクリスチャンがいなくなりキリスト教精神で運営することを断念する法人もあります。十字の園の定款には「キリスト教精神に立って」という言葉が入っていて、法人の立ち位置が明確に示されています。「キリスト教精神」の「教」をとって、医療・福祉・教育・宣教に「人の子」として歩まれたイエス・キリストに倣って。キリストに学び(真似て)歩むよう「キリスト精神」と法人内研修で伝えるようにしています。
3代目の理事長は「十字の園における福祉の創造~既に据えられている土台の上に~」をテーマに法人を運営しました。4代目の理事長の私の役割は「創立の精神の次世代への継承」です。十字の園創立50周年から「創立の精神(こころ)から、新たな福祉に挑戦(チャレンジ)」を運営のテーマとしています。
 聖隷の創始者長谷川保ら5人の青年は「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。(ヨハネの手紙Ⅰ3:16)」のみ言葉に触発され、当時、社会で恐れられていた結核患者での働きを始めました。深津文雄は、「われわれが漠然と底辺と呼んでいるところは、実は、そこを降りてみると、考えていたよりは凹凸で、奥深く、下には下があって、そのドン詰まりは、ただ一つの点になる。そこをぼくは『低点』と呼ぶことにした。」と言って、長期婦人保護施設「かにた婦人の村」を始めました。ハニ・ウォルフは長谷川保に「日本では老人ホームの職員の数が足りないからといってなぜ、病気の老人を老人ホームに入れるようにしないのですか。世の中の人が人手や金がかかってやれないというなら、それは神様が教会に命令しているのです。キリスト者である私たちに、進んでやれとおっしゃっているのです。」と言って、日本で最初の特別養護老人ホーム(当時は生活保護法の保護施設)の働きを始めました。キリスト教社会福祉の多くは、このように、法律も制度のない中に、社会の中の、地域の中の課題に、キリストが手を差し伸べたように、キリストに倣って始まっています。ここに創立の精神(こころ)があります。そして制度ができ、法律ができてきました。
 福祉の専門家でなく、一介のクリスチャンである私が十字の園の理事長に立てられていることは不思議です。仕事の選択について聖書は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」とあります。私にとって、十字の園は神の召命による天職だと思っています。仕事を「与えられる」ということは、その人の存在を「必要とされ」用いられるということです。その人に託された仕事は、その人の「使命」となります。その仕事に「使命感」を持って取り組むとき、期待に応えるため精一杯に努力をしたときに思いを超える成果が生まれます。
 私に託された使命は「創立の精神」を守ることでなく、継承することです。十字の園は創立時から毎朝の礼拝のみ言葉から一日が始まります。施設礼拝では日常の生きる道がみ言葉を通して語られます。私は月に10回ほど語る機会がありますが、神学としてのキリスト教は持ち合わせていないので、主によって罪を贖われ救われた喜びを、この十字の園で働いてきた先達たちの姿を重ねながら語るようにしています。そこから、働く職員が十字の園で働いて良かったと感じることができれば幸いであり、その中から十字の園を継承することに使命感を感じる後継者の生まれることを願い祈っています。
 ハニ姉妹は「伝道と奉仕の団体十字の園」と言いました。制度や法律が整備されても、地域には新たに生じた課題を含め、山積しています。これからも多くのノンクリスチャンの職員と協働して「創立のこころから新たな福祉にチャレンジ」していきたいと思います。

福祉キリストに倣う者であるように(コリント前11章1節)

伊東養護平和の杜職員勉強会にて

 仙台キリスト教育児院で院長をされていた大坂譲治先生が、「この法人におけるクリスチャン・ソーシャルワーカーのモデル」の文中に、「泉シオン伝道所牧師深田寛先生は、『4:16 そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。』という言葉を私達に力強く示されました。私の脳裏によぎったのは、マザー・テレサと長谷川保先生でした。」と記しています。全国にあるキリスト教精神を銘打った社会福祉法人のそれぞれの歴史の中に、聖隷のような、振り返ればドラマのような出来事とそのことに関わったクリスチャンの人たちの姿があります。その出来事から起こされた社会福祉の事業の始まりに「創業の精神」、法人の理念」があります。

コリントⅡ1:20
神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。
それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。
(鈴木生二氏説教メモ その1)
 イエスは、聖書の最後の一点の、もっとも小さな文字も確かなのであると宣言し、全律法の下に自らを置かれた。そのためイエスはご自身の「まことに〈アーメン〉」を置かれた。「まことに、そのとおりであり、そのとおりでありつづけるだろう。わたしはあなたがたにそのことを言う」と。〔アーメン〕はヘブル語で「まことに」「確かに」「そのとおりであれかし」の意味を持つ。イエスは重大なことを言い出されるさい、「まことに私はあなたがたに言う」という言葉で切り出された。彼は、それによって聖書の戒めをご自身の戒めとなさった。そのことによって、聖書の戒め、聖書の語るところを、完全に行うことによって、弟子たちにいかにしてイエスに従うかを知るのである。神の啓示と支配とが、栄光をもたらすか、恥をもたらすかは、そのことにかかわっている。

(鈴木生二氏説教メモ その2)
 神が福音によって聞かれた祝福は、キリスト者の生活を通してこの世界を理解できるようになる。そのようにして、この世はそれをただ聞くだけでなく、身を持って体験する。私たちの奉仕の目的は、人びとに神を思い起こさせ、神の慈愛が見えるようにすることの中にある。しかもそれは、その結果、彼らが神の恵みを感謝して賛美するように動かされることにある。その目的が私たち自身の栄誉のためであるのなら、私たちの奉仕は駄目になってしまうであろう。私たちを通して神への讃美が起こる時のみ、それは正しく行われるのである。すべての意志が、この目的におかれる。もはや、私たちは何んのために地上にいるのか、問う必要はない。それは神が賛美と感謝をお受けになるためなのである。

わたしは、「偶然でなく、縁あって『福祉』で働いています。」

 大学を卒業して河合楽器に就職し、沼津学販課のセールスマンでした。一人目の子どもは早産でした。二人目の子ができたとき、クリスチャン家庭を築こうと、5年目に思い切って転職しました。「福祉」への道を考えました。これがわたしの福祉への道のきっかけです。
 → あなたの「福祉」へのきっかけは?

わたしは、「偶然でなく、縁あって『十字の園』で働いています。」

 修善寺教会の牧師に勧められて東海教区のボランティアスクールに参加し、牧師の紹介もあって、十字の園に就職することができました。就職した1週間後に長女が生まれました。御殿場十字の園→伊豆高原十字の園→法人本部→浜松十字の園→法人本部→アドナイ館→法人本部→浜松十字の園→第2アドナイ館→法人本部と、働き出してから39年が過ぎました。
 → あなたの「十字の園」へのきっかけは?
そして、
 → 十字の園に就職してからのあなたの仕事のなかに「見える『光』」は……?

今一度、自分の福祉への原点に立って考えてみてください。

福祉:「たった一度の 人生だから」 短冊に願いを込めて

ユニットケアフォーラム in 伊東 講演原稿

◆はじめに
平成10年6月に浜松十字の園の施設長に就任してすぐに、いろいろなことが気になりました。就任4か月後から他の施設の見学に職員を派遣し、ケアの内容の点検をしました。見えてきたことを改善するために、平成11年4月、入居者と職員をグループに分けてのグループケア(その後ユニットケア)を始めました。
◆たった一度の人生だから
この世に生まれてきたすべての人が「たった一度の人生」を歩きます。当たり前のことですが、このように思うと、とても大切に思えてきます。人と人との仕事である福祉に携わると、その貴重なお一人おひとりの「たった一度の人生」に関わりを持つことが仕事になります。
◆浜松十字の園の内玄関に「すべてのこと愛をもって行いなさい」と定礎板に書いてあります。そこから「今、私の前にいる、その人の、すべてを大切にします。」の理念の言葉を作りました。「いつやるの?今でしょ!」の「今」を頭につけました。高齢者にとっては、一日一日が、一時一時が大事です。「待っててね」と待ってはいられないのです。私の前とは、一人ひとりとの出会いです。私と関わりを持った一人の人がいます。目の前ではありません。いつも気にする「その人」です。「すべて」とは、生きてきた人生のすべて、過去も現在も、思い出も、持ちものも、すべてです。すべてをその方と一緒に大切にしていきたいのです。
◆最初に取り組んだのは、入浴です。午前中に20人30人が入ります。廊下に並べられ、順番を待ってお風呂に入れられます。着替えものんびりやっていれば手が出てきて服を脱がせられ風呂に入れられます。日本人はお風呂が大好きです。お風呂は体の洗濯ではありません、体をきれいにしながら、心もきれいにするところです。120名週2回以上の入浴をするためには職員の数からも「仕方ない」のです。パート職員を8名採用し、お風呂の時間を、1階2階それぞれ一日3クール、月曜日から土曜日まで6日間36クールの入浴時間を作るようにしました。すると、今まで20人入っていた時間に10人とすれば行事等で入浴のない日があっても、最低週2回の入浴は確保できるのです。「湯ったり、湯っくり」作戦です。自然と鼻歌がでたり、職員とも会話も生まれます。
◆104歳の堀内さんは、もともと気丈夫で92歳までアパートで一人暮らしをして、十字の園に入園されました。100歳過ぎてからは車いすの生活になりましたが、オムツを使わないで何とかきました。骨折で入院しオムツをしてからは食欲も落ち、一応退院はしましたが、12年住み慣れたお部屋に帰ってからも食欲は戻りません。いろいろ工夫しましたが一向にもとに戻りません。8月に庭で夏祭りを開催しました。増築工事が終えて皆に迷惑をかけたからと、奮発して手筒花火を企画しました。ストレッチャーに乗ってしぶしぶ夏祭りを見ていた堀内さんが、手筒花火を見たとたん、「生まれて初めて見た、生きててよかった、長生きはするもんだ」とつぶやいたそうです。その次の日から食べ始め、1か月後には車いすで移動するまでになりました。
◆名倉さんは、車いすの状態で十字の園に入居してきました。私に「もう一度歩けるようになりたい」と言いました。歩けるといってもシルバーカーを押して歩くのですが、それなら毎日立ち上がりをして足の筋肉をつけるといいよ、と話し、廊下の一角に椅子を置き、そこで手すりをもって立ち上がりを毎日しました。職員にも声掛けすることをお願いしました。すぐ効果が表れ、シルバーカーを押して歩くことができるようになりました。87歳の挑戦でした。
◆藤本さんは台湾の高雄高女を卒業し、戦前、そこの先生もされた人です。私が台湾に行くと言うと、その頃の思い出をいろいろ話してくれました。マンゴーなど食べもののことも、高雄高女のことも、顔を輝かせてお話してくれました。台湾に行って高尾高女の前で生徒と一緒に写真を撮り、中に入れてもらって日本語で書かれた石碑の前で撮った写真もお見せしました。さらに、お世話になった陳さんが、藤本さんに台湾のマンゴーを持って行ってと頼まれました。こっそり税関を通り抜け持ってきたマンゴーを食べた藤本さんには満面の笑顔でした。
◆「夕暮になっても光がある」という聖書の言葉が十字の園の理念です。それを「人格を尊重し、生きる喜び、生きる自由、生きる希望を創ります。」としました。人格とは、その人の生きてきた人生すべてです。良かったこと悪かったこと、楽しかったこと、辛かったこと、子どもの時から今の毎日も人格です。それを尊重するのは当たり前ですが、高齢になり、人の世話なしに生活が出来なくなると尊重されなくなりがちです。一人として不要な人はいません。どれだけできて、どれだけ役立っているのかではなく、その人の存在そのものが大切であり、必要とされているのです。
◆「めずらしい古風なライターをお持ちですね。」「このライターは俺の誕生日に、死んだにょーぼからもらったんだ」と得意げに話をされました。子どもはなく、奥さんにも先立たれ孤独といってもいい稲垣さんですが、亡くなった後は、墓を処分してお寺の共同墓地に、にょーぼの骨と一緒に供養してほしい、との遺言でした。お寺に行き、生前の稲垣さん思いを住職につげ、段取りをつけておきました。子どものなかった稲垣さんは日本人形をいくつか持っていて大事にして、職員はその人形を預かってくれていました。約束どおりお骨を納め、その人形もお寺で供養してもらいました。一人ひとりに寄り添うことで、この方の願いをかなえることができたと思います。
◆水上さんは日系2世、ロスアンゼルスに生まれ育ちました。戦争中強制収容所にも入った経験を持っています。日本にいる姉を頼りに、その伝手で十字の園に入園した方です。東京ディズニーランドに行って見たいと職員に話しました。すると、同じように佐藤さんも希望しました。そこで、職員たちはその願いを叶えたいと準備にかかり、お二人とも車いすの方なので施設の車で行き、ホテルに宿泊してディズニーを満喫してきました。看護師も同行し3人の職員と一緒に行ってきました。英語の堪能な水上さんは、外国の方と英語で会話する姿は格好良かったとのことです。お土産もTシャツ、帽子など購入し、その時の写真は今もベッドサイドに飾られています。
◆ケアハウスアドナイ館の最初から入園していたNさんは特養の対象となり、特養に入れるまで療養型病院に入院していました。入院しても最後は十字の園でいう方です。順番が来て入居の日、玄関に入った途端、「ああ!もうこれで安心」と言いました。「まだ部屋まで言っていないのに」と言いましたら、「玄関のこの空気でもう分かった」というのです。家具や物で繕うことが環境でなく、それらを含めた空気の環境をつくること、誤魔化しのきかない部分です。
◆この方もアドナイ館の最初からの方です。奥さんが亡くなった後、家族との同居も試みましたがうまくいかず、ケアハウスに入居された方です。認知症によるトラブルはありましたが、何とか10年間生活できました。そして、私が施設長のときに十字の園に入居し生活され、100歳の祝をしてから亡くなりました。既存施設のユニットケアをしていたので部屋は4人部屋、廊下がユニットの食堂リビングで、ケアハウスで個室にいたこの方には申し訳ない環境でしたが、亡くなってからその家族と出会ったとき、「一度 平井さんにお礼が言いたくて」と、十字の園の生活に満足していました。それから1年ぐらいたっと時にお会いした時も、「一度 平井さんにお礼が言いたくて」と二度目のお礼を言ってもらいました。
◆第2アドナイ館は地域密着型のユニット型ケアハウスです。既存施設でのユニットケアをした後、職員住宅を改造した小規模認知症通所介護を開設したり、平屋の大きな家を購入し改造して小規模多機能型居宅介護施設を開設したりしました。ユニットケアは「その人らしさが入口で、出口は地域」の言葉が私の課題でした。特養でもないケアハウスでもない住まいとしての入居施設が私の最後のチャレンジとして開設しました。29人が定員ですが、あえて20人で運営したいと思いました。今までのユニットケアをハードによる克服をという思いもありました。十人十色といいますが二十人二十色を、また、職員も個性を個性として持ちながらの施設づくりをしてみました。
◆「自分らしくその人らしく生き生きと、あなたの“生きる”を支えます。」が第2アドナイ館の理念の言葉です。二十人二十色。一人ひとりの自分らしさを演出したい、お手伝いをしたいというのが私の運営への思いでした。介護保険の施設で要介護1以上が入居要件ですから全員要介護です。要介護5の方も2名いました。ポイントは「あなたの“生きる”を支えます。」にあります。しかし、これがなかなか難しいところです。どこまでケアをすればいいのか、どこから見守ればいいのか、今でも課題ですが、個性の固まりの施設づくりはできました。バトンを渡した施設長が、私に引き続いて悩んでいます。
◆「ユニットケアはあくまでも方法です。もっといい方法があるかもしれません」と武田さんが記していました。私にとって、もっといい方法探しが仕事になりました。
◆十字の園は一昨年創立50周年を迎えました。日本で最初の特別養護老人ホームといわれ、法律も制度もない中に、要介護老人の入れる老人ホームを創ることが当時の創立者たちは自らの使命として始めたことです。50周年以降の十字の園の道しるべは「創立の精神(こころ)から、新たな福祉に挑戦(チャレンジ)。」です。いくら制度が整っても、法律ができても、救いの中に入らない方があります。そのためには新たな福祉にチャレンジしなければ道は見つかりません。
◆利用者にとっても、職員にとっても、家族にとっても、すべての人にとって「たった一度の人生」です。私たちの仕事は、その人生の最後のステージに関わることです。たった一度の人生がどう締めくくられるか、私たちの役割は大きいのでしょう。でも、そこに関わり、「これで良かった」と共感できたとき、この仕事をしていて良かったになるでしょう。「利用者にも笑顔、職員にも笑顔」となりたいと思います。

福祉:ケアハウスアドナイ刊20周年に寄せて

アドナイ刊20周年記念誌に寄稿した文

「20年目を迎えて……新たな夢」
 浜松ディアコニッセ母の家を、ハニ姉妹は「アドナイ館」と呼んでいました。由来は、創世記二二章「その所の名をアドナイ・エレと呼んだ。人々は『主の山に備えあれ』と言う。」です。この二〇年間を振り返ると、不安と期待を抱きつつ信頼してこの山(アドナイ館)に来た人に、主は、その人の必要な時、必要なもの、必要なことを備え、生活を支えられました。
若干四四歳の時に、「自立の気持ちさえあれば住み続けられるケアハウス」「自分らしく、その人らしく生活できるケアハウス」を掲げ「賄い付き老人アパート」と称して運営してきました。「お世話する」のではなく「自立して生活をする」ことを大切にしてきました。ついに私も六五歳。高齢期の生き方を他人事から自分事として考える齢になってみて、この方針は正しかったと思っています。
 私がアドナイ館の施設長をしたのは僅か三年です。しかし、その経験・体験は、浜松十字の園施設長時代の施設運営や理事長としての法人運営に大きな示唆が与えられました。自分らしく、生き生きと生活できる施設、一人ひとりの思いに寄り添い、一人ひとりの思いがかなえられる施設を目指して、夢を描き、夢に向ってチャレンジしました。その後の特養のユニットケアの実践、ユニット型ケアハウス創設も、夢の実現です。
 理想的な施設であっても、「住み慣れた地域・場所で最期まで生活したい」というのが本音だと思います。それを実現できる「居場所・生活の場」は出来ないだろうか。まだまだ挑戦できる福祉の姿があります。二〇周年を迎えて、高齢者福祉への新しい夢に挑戦して行ってほしいものです。

福祉 「あしあと」

「あしあと」(詩 マーガレット・F・パワーズ)

ある夜、私は夢を見た。
私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、

私はその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。私があなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において私とともに歩み、
私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、
一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」

主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、
私はあなたを背負って歩いていた。」

♪いつでも夢(ロマン)を♪
自称サユリストの私、二年前のクリスマスに妻から「吉永小百合写真集」を送ってもらいましたが、複雑な気持ちで、本棚に置いています。でもふと♪星よりひそかに 雨よりやさしく……お持ちなさいな いつでも夢を……♪と歌っています。あなたの《夢》何ですか、《夢》持ってますか。夢(ロマン)には冒険の意味が込められているのです。十字の園は老人福祉法制定前に、ハ二・ウォルフさんの「今の日本にねたきりの人の老人ホームが必要です」の提言に、土地のことも金のことも考えずに動き始めました。聖隷から土地と、ドイツの人の一マルク献金で建ってしまいました。「介護保険」、これで高齢者福祉は万全だとだれも思ってはいません。初代理事長の鈴木生二氏は「十字の園は常に『パイオニアの精神』を持っていてほしい」と言われました。私の口癖は「福祉はロマン」という言葉です。

☆福祉には夢や幻の種が落ちています☆
聖書に「老人は夢を見、若者は幻を見る」ということばがあります。
福祉は、人と人との仕事です。毎日福祉の仕事をしていると、制度も法律もまだまだだなあ…と感じることがたくさんあります。福祉の中から、「幸せ」が出てこないと、「笑顔」が生まれてこないと、何の意味もありません。まだまだだなあ…との”気づき”の中に、これからの福祉構想が出てきます。その”気づき”こそ、”夢や幻”の種です。基礎構造改革ではなく、基礎構想改革をしたいものです。私はたくさんの”気づき”から、夢や幻に挑戦しました。……これって、苦労もあり、失敗もあり、批判もされたりしますが、結構楽しいものです。生きがいを感じます。
そのためには、人に寄り添うことから始めましょう。

powered by Quick Homepage Maker 4.91
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional